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【伊達成実】
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日も落ち敗北必至になったそのとき奇跡が起きる
老将・鬼庭左月斎良直は、当時かなりの老齢。兜も甲冑を身につけることすら出来ません。
それでも手に政宗から拝領した采配を握りしめ、主君を守る盾となりました。
そしてそのまま討ち死にを遂げます。
目前で討ち死にを遂げた忠臣に心動かされた政宗は、反撃すら試みますが、根性でどうこうなるレベルではありません。
若き成実も、主君を逃すべく奮闘する他ありません。
とはいえ、彼は政宗よりも若い将です。
勇気を振り絞って孤立する中、留まり続ける成実に、家臣たちも声を掛けます。
「多勢に無勢です。これでは本陣も持ちますまい……ここはひとまず退かれた方が良策でしょう!」
家臣がそう成実に進言してきました。
しかし、成実は、断固として彼らの意見を無視。それどころか、日頃の鍛錬の成果を見せるべく大太刀を抜き払い、敵軍へと斬り込んでいくのです。
若きリーダーの奮闘を見て、家臣や兵士も続かないわけにはいかない。槍を掲げ、皆で敵陣へと突き進みました。
その猛烈な勢いに、さしもの佐竹勢も一瞬怯みます。崩れゆく味方の中、突き進む成実はまさに猛将。戦いぶりは、武士の魂の結晶とも言えました。
やがて日が傾き、寒さが厳しくなってゆきます。
いくら熱い闘志を以てしても、もはや体力の限界。
身体が動かない――。
そう諦念しかけたとき、伊達勢にとっては目を疑うような光景が広がりました。
佐竹勢が、兵を退き始めたのです。
伊達勢からすれば奇跡的な展開。
佐竹にとっては、別の事情がありました。
佐竹の国内で不穏な動きがあり、撤退せざるを得なかったのです。
もしもこの幸運がなければ、政宗も成実も、若い命を散らしていたかもしれません。
まさに危機一髪でした。
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奥羽を席巻する政宗の元で
九死に一生を得た政宗。
これを気にしてしおらしくなったのか?と言いますと、そんなことはありません。
奥州を武力で制圧すべく、強気の進撃を続けます。その傍らで見守り続けたのが、成実でした。
政宗にとっての悲願は、会津の名門・蘆名氏を攻略することです。
会津とは、奥州の中でも広大な盆地が広がり他国へと繋がる要衝であり、ここを抑えねば奥州を制覇したとは言えない、そんな場所でした。
当然ながら蘆名家も強く、伊達家といえども歯が立たない――状況は、政宗の時代に変わりつつありました。
天正12年(1584年)第18代当主であった蘆名盛隆が、23歳という若さで家臣によって殺害されてしまったのです。
後継者を擁立しようにも、乳幼児しかいない国がまとまりにくいのは説明するまでもないでしょう。こんな時、息の掛かった者を後継者として擁立させ、力を伸ばすことを伊達家はよく行っておりました。
例えば、最上義光の父・義守もこの例です。
家督相続時、まだ幼児に過ぎなかった義守は、養母として伊達尚宗の娘が後見についておりました。そのせいか、義守は生涯伊達家に対して頭が上がらないところがあったのです。
そして、こうした姿勢が彼の子である義光と一致せず、父子は深刻な対立に陥ったこともあります(「天正最上の乱」)。
事態を警戒した蘆名家では、後継者に佐竹義重の子である義広を選びました。
「摺上原の戦い」が火蓋を切る
弟の小次郎を据えたかった政宗としては、許しがたい選択。
もしも蘆名家が小次郎を当主に据えていたならば、歴史は大きく変わっていたことでしょう。
こうなっては、もはや政宗にとって、蘆名家は滅ぼすべきものでしかありません。
政宗は大崎攻めで手こずり、伯父である最上義光と一触即発となって、母・義姫のとりなしで和解に至る等、様々な事情がありました。
そうした事情が落ち着いた天正17年(1589年)。政宗にとって、最大の勝利とも言える【摺上原の戦い】が火蓋を切ったのです。
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名峰磐梯山と猪苗代湖のすぐそば、摺上原に布陣した伊達勢。成実は、政宗、片倉景綱に次ぐ三番手として出撃しました。
当初は、会津の地形をよく知り、数でも勝る蘆名勢が優勢でした。
それが風向きの変化によって、逆転の好機が到来。もうもうと煙る中、伊達勢は崩れた蘆名勢を追い詰め、大勝利をおさめたのです。
蘆名勢の死者は、2千に迫ったとも言われております。事実、同家を滅亡に導く大勝利でした。
この戦いにおいても、成実は伊達家臣団の中核を担い、存在感を見せ付けております。
このとき、勝利を収めた伊達勢が歌っていたのが、『さんさ時雨』という民謡なのだとか。
会津地方では不吉な歌としてタブーであったとか、蘆名氏の頃から歌われていたのであるとか、諸説あります。この歌を、成実が作詞したという逸話もあります。
真実かどうかははっきりしないが、それほど大勝利に酔いしれたということでしょう。
しかし、この「摺上原の戦い」は合戦に勝って、勝負に負けたようなものであったかもしれません。
天下を統一しつつあった関白・豊臣秀吉は、政宗にこう突きつけ、釈明を求めて来たのです。
【摺上原の戦い】は、惣無事令の違反である――。
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