伊達成実

伊達成実/wikipediaより引用

伊達家

独眼竜を躍進させた猛将・伊達成実の生き様が熱い!御家を出奔した経験もあり

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「干城」として主君を守る

天正18年(1590年)。

豊臣秀吉が関白として天下統一を進めてゆきます。その目は、奥羽にも向けられておりました。

この動きをどう見るか?

「これぞ好機! 天下人に私こそが大名だと認めてもらおう」

そう考えた大名もおります。

伊達政宗としばしば対立してきた最上義光がそうです。

最上義光像

義光は「関白が認めた出羽の支配者はこの義光。皆従うように」というふうに喧伝を始めました。

他に、安東実季の配下であった蠣崎慶広は、抜け目なく秀吉に接触、蝦夷地支配の大名という特異な地位を認められます。

一方で政宗にとっては、大いなる挫折となりました。

彼が天下を狙っていたとは思えませんが、奥州の要である会津を返す羽目になるのですから、たまったものではありません。

関東の北条氏は、まだ秀吉に抵抗しています。力を合わせれば、秀吉の天下統一に対抗できるかもしれない――そんな思いもよぎります。

ちなみに彼の父である伊達輝宗の時代。

もしも西国が攻めて来たら、陸奥と出羽で力を合わせて戦おうという盟約が、隣国・最上義光との間にありました。

伊達輝宗
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しかし、政宗の代になると両者は決裂し、このときの義光は伊達政宗の監視役を秀吉に対して買って出ていたほどです。

政宗も、外交を無視していたわけではありません。

秀吉に使者を送り、陸奥の守りは任せて欲しいとアピールしてはいるのです。

しかし、秀吉からすればそんなものは無駄なこと。

「言いたいことがあるならば、本人が来なさいよ。北条攻めの小田原に集合な」

小田原征伐の始まりでした。

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成実は秀吉の意見など知らんこっちゃ

こうなると、政宗も家臣の意見を聞くほかありません。

片倉景綱や原田左馬助宗時らは、もはや小田原に向かうのみ――と意見を述べ、小田原に向かうと決めたのでした。

弟・小次郎の死といった混乱もあったものの、政宗は小田原に向けて出発します。

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成実だけは「徹底抗戦だ!」と反対したと言います。

そのためか、小田原には向かうことなく、自領で留守を守ることとなったのです。

これこそ、秀吉相手に抗戦すべきであると息巻いた猛将には、うってつけの役目です。

政宗の留守中に隙を狙おうとしても、そんなことを成実は許しません。

政宗は、成実を「干城」と評したとされております。

主君のため、命を賭して城となり、盾となる、そんな忠臣のことです。

さらに成実の兜の前立て(兜の飾り)は、毛虫でした。

決して後退しない習性にあやかったものです。

その前立て通り、彼は決して退くことなく、主君である政宗を支え続けたのです。

 

試練のとき 主君と袂を分かつ

豊臣政権下での成実は、

・葛西大崎一揆の鎮圧

・文禄の役

といった戦いに参戦を果たし、活躍を続けました。

政宗の側にいることと、伊達領を守ることを、交互につとめていたのです。

政宗は京都で、茶の湯や他大名との交流を楽しんでおりました。

奥羽出身の大名の中には、周囲から見下されることを気に病んでしまう者もおりましたが、さすが名門出身の政宗は違います。馬鹿にされてなるものかと、精力的に活動していたのです。

そんな政宗に、文禄4年(1595年)、大きな試練が襲いかかります。

関白・豊臣秀次切腹に巻き込まれ、豊臣政権への謀叛を疑われたのです。彼にとって従妹にあたる最上義光の二女・駒姫は処刑すらされております。

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このとき【伊達家と最上家が天下に対して反逆を企てている】という、荒唐無稽な立て札が出回りました。

あまりにも無謀な内容であるとして、かえって伊達家と最上家への疑いは晴れましたが、とんだ災難です。

成実にも不可解な運命が襲いかかります。

正確な時期と動機すら不明ですが、この前後に伊達家から出奔して高野山へ向かったのです。

なぜ、そんなことになったのか? 未だにナゾですが、主な諸説を考察してみますと……。

◆武勇の誉れ高い成実に、仕官の誘いもかかっていたからか?

上杉景勝は、五万石という破格の待遇で成実を誘ったとされます。

片倉景綱はこうした動きに気を病み、密かに成実復帰に手を回し始めました。

◆政宗との不和か?

成実は、政宗という主君であっても容赦なく叱り飛ばすことがありました。

合戦後、気が緩んで馬上から降りずに水を飲ませていた政宗を「だらしない!」と怒鳴りつけたことすらあるのです。

◆他の家臣と比較して、一門であいながら扱いが軽いと憤ったのか?

成実は、主君が相手でも断固として反論するところがありました。

だらしがないと叱り飛ばすくらいならまだしも、もっと本気で主君に対して反駁することもあったのです。

伊達晴宗の四男であり、石川晴光の養子となった石川昭光という人物がおります。

石川家は秀吉の奥州仕置により大名ではなくなってしまい、昭光は本家である政宗の家臣として帰参します。

政宗にとっては叔父にあたるため、伊達姓に復帰させ、客分として成実の上席に配置しました。

成実はこのことに頑として反対したのです。

成実にすれば、昭光は政宗に弓引いたことすらある人物です。年長者として上席にあることは許せましたが、本家に復帰することだけは許せませんでした。

政宗は成実の憤りを知ると素直にそれを受け入れ、謝罪。

かくして昭光は、そのまま石川と名乗ることとなったのです。

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