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【北条幻庵の生涯】
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北条氏の領地1/10が幻庵のもの
天文十一年(1542年)5月、北条幻庵の甥である北条為昌(二代当主・氏綱の子)が20代前半の若さで亡くなるという出来事がありました。
為昌の領地は何人かに分配され、そのうち武蔵小机領が幻庵へ。
同所領にいる武士たち“小机衆”も幻庵の傘下に入ります。
これにより幻庵は天文十二年(1543年)から、小机周辺の統治に関する文書を発給し始めるなど、さらに存在感を強めていきます。
※小田原征伐後に廃城とされた同エリアの拠点・小机城
ただし、本拠は久野(現在の小田原市)にあったため、彼やその子孫たちのことを久野北条氏(家)と呼ぶこともあるほどです。
天文十五年(1546年)には北条氏康が10万の大軍を奇襲で破ったともされる【河越城の戦い】に参加。
その後も立場は強くなり、永禄二年(1559年)2月時点で北条氏全体の約11%にも及ぶ領地を持っていました。
幻庵に権益が集中することについて反抗した人がいたとか、幻庵自身が天狗になって不和を招いたといった話が全くありません。
地味に凄い話ではないでしょうか。
しかし、幻庵は長生きしたぶん悲しみも経験することになってしまいます。
息子たちに先立たれる
永禄三年(1560年)、長男の北条三郎が夭折してしまいました。
三郎も生年は不明でして、姉妹の嫁ぎ先が天文年間半ば~後半であることを考えると、彼の生年は天文年間前半~半ばあたり(1532~1543年)かと。
だいたい織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の三英傑と同世代ですね。
長男の死を受け、幻庵は次男の北条綱重に跡を継がせますが……

北条綱重/wikipediaより引用
今度は永禄十二年(1569年)のことです。
武田信玄が小田原城へ押し寄せた際、幻庵らが籠城したため、信玄は綱重の籠もっていた蒲原城を攻略しにかかりました。
この戦で綱重と幻庵の三男・北条長順(ちょうじゅん)が討死。
幻庵は、あろうことか息子全員に先立たれてしまうのです。
小机城にいたもう一人の甥(氏綱の子)である北条氏尭(うじたか)も永禄六年(1563年)に病死しており、幻庵の周囲に頼れる若者がいなくなってしまいました。
むろん跡継ぎ不在というのは深刻な事態であります。
そこで北条宗家から三代当主・氏康の七男である三郎を娘婿に迎えることになりました。
しかし、この三郎も元亀元年(1570年)、越後の上杉家と和平のため謙信のもとに養子入りすることになり(後の上杉景虎)、

上杉謙信/wikipediaより引用
新たに宗家の親族から北条氏光を婿養子に迎えて跡を継がせています。
バタバタと息子や甥などが死んでいく様は、幻庵にとって嘆きたくなる状況だったでしょう。
多芸多趣味
長い間、こうした重責を背負ってきた北条幻庵。
いかにもストレスの溜まる環境ですが、彼はその消化方法もよく知っていたようです。
前述したように和歌を嗜んだり、尺八の一種「一節切(ひとよぎり)」を作って吹いたり、多趣味だったらしきことが伝えられています。
一節切というのは、竹の節目が一つだけになるように切って作った尺八のこと。
現代で一般的にイメージされる尺八は、吹き口のほうが細く、下に行くほど太くなっているものが多いですが、一節切の場合は上から下までおおむね同じ太さのものが多いようです。
音色としてはパンフルートに近い印象があり(※一個人の感想です)、これまた尺八でよくイメージされる音とは少々異なるように感じます。
尺八自体が武家に好まれた楽器の一つでもあるのですが、中でも一節切は幻庵の他にも島津貴久やいわゆる島津四兄弟などが好んだとされていて、一定の人気があったようです。
youtube等で吹いているプロの方が何人かおられますので、ご興味のある方は検索してみてください。

島津四兄弟の父である島津貴久/Wikipediaより引用
嫡孫の北条氏隆に全てを譲り……
天正年間(1573-1592)に入ると、北条幻庵の記録は一気に減ります。
わずかに朱印状が残されている程度で、天正十年(1582年)に嫡孫の北条氏隆(北条綱重の子)が元服したのを機に、所領などをすべて譲ったようです。
そして天正十七年(1589年)11月1日に死去。
『北条五代記』では97歳で亡くなったとされますが、生年が明らかになっておらず計算に無理もあり、天正十七年の死も不確定でして。
異説も多々ありながら「豊臣秀吉による小田原征伐が始まる天正十八年(1590年)の前に80代で亡くなった」というのは共通認識のようです。

豊臣秀吉/wikipediaより引用
もしも小田原征伐時まで幻庵が生き延びていたら?
事前に何らかの手を打ち、滅亡は避けられたでしょうか……って、そう甘い話ではありませんね。
幻庵が、天正十年までには隠居し、相当な高齢だったことを考えれば、8年後の天正十八年にそこから有効打を繰り出せた可能性はゼロでしょう。
むろん、それでも彼が北条五代にまたいで活躍し続け、文武に熱心だった人物であることに変わりはありません。
僭越ながらもっと名が知られていい存在ではないでしょうか。
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参考文献
- 黒田基樹『増補改訂 戦国北条家一族事典』(戎光祥出版, 2023年12月下旬刊, ISBN-13: 978-4864034968)
出版社: 戎光祥出版(公式商品ページ) |
Amazon: 商品ページ - 上田正昭/西澤潤一/平山郁夫/三浦朱門(監修)『日本人名大辞典』(講談社, 2001年12月6日, ISBN-13: 978-4062108003)
出版社: 講談社(公式商品ページ) |
デジタル版案内: JapanKnowledge(収録案内) |
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