井伊家

井伊直親の妻にして直政の母でもある【ひよ(しの)】という女性

女ながらにして地頭(城主)となった井伊直虎

もともと井伊直親(ドラマおんな城主直虎では三浦春馬さん)という許婚者がおり、本来であれば彼と結婚し、井伊家を盛り立てていくハズであった。

しかし、時は戦国、相思相愛の物語など世情が許さない。

井伊家が属する今川家に命を狙われた直親は信州(長野県)へ逃げることとなり、これに悲嘆した直虎が出家。
幼かった2人の淡い恋は露と消えてしまい、そしてそのまま時が平穏に過ぎれば直虎も静かに一生を過ごしたのかもしれない。

が、戦国乱世が再びそれを許さなかった。

直親が逃亡先から帰国し、新たに妻を娶ったのである――。

直親の妻・ひよ(ドラマでは“しの”・貫地谷しほりさん)の史実にスポットを当ててみよう。

 

井伊直虎や直親とは幼馴染だった「おひよ」

ひよは奥山朝利の長女であり、奥山家文書にも「おひよ」と記されている。

生年は不明。
小説等では、井伊直虎・井伊直親・小野政次(ドラマでは高橋一生さん)と併せて同世代の4人として記されることが多く、彼らとは幼馴染でもあり、四角関係であったという見方もされる。

唯一年齢の判明している亀之丞が天文4年(1535年)生まれなので、ひよも直虎と同じく5歳年下の1540年ぐらいであろう。

ひよの生家・奥山家は、井伊家7代頃から分岐した庶子家で当時も裕福な家であり、幼き頃の彼女は何不自由のない幼少期を送っていた。

そんな生活がガラリと変わったのは弘治元年(1555年)のことである。
この年、元服した「井伊肥後守直親」と結ばれ、同時に将来の井伊家を継ぐ宗主候補の妻となった。

ドラマで三浦春馬さんが演じられるように、直親は美男子かつ笛の名手でもあり、当時の女性にとってはこの上ない相手だっただろう。

しかし、ひよは大きなプレッシャーにもさらされることになった。

 

何としても十代のうちに生みたい

ひよにのしかかる重圧。その一つは、夫・井伊直親の元許婚者であった井伊直虎の存在だ。

幼馴染であり、しかもひよの生家・奥山家から見れば、直虎は本家本流の長女である。圧倒的に立場は弱い。

もう一つは、井伊家宗主の妻となる以上、一刻も早く嫡男を生まねばならないという責任である。
家の存続が何より大切なこの時代に男児を授かれない妻の居場所は正室とはいえ窮屈なことこの上ない。

そして不運なことに結婚から5年が経過しても、2人の間には子供は生まれなかった。

───何としても十代のうちに生みたい。

永禄3年(1560)1月1日、この日20歳になった焦りからだろうか。ひよは龍潭寺の南渓和尚に子授けのご祈祷をお願いした(数え年では、毎年1月1日に1つ年をとるため20歳)。

また、後に井伊直親の菩提寺となる大藤寺の観音様にも毎日通って祈り続けたという。

しかも、この1560年には戦国史に残る桶狭間の戦いが起こり、当時の井伊家宗主であり夫・直親の義父(かつ直虎の実父)の直盛が今川義元に続いて殉死。
夫・直親は予想以上に早い段階で宗主になってしまった。

ますます募る「嫡男を生まなければならない」というプレッシャー。

神様はその瞬間を見計らったのだろうか。
ついにひよの懐妊が明らかになった。

 

待望の男児が生まれるも微妙になる直虎との関係

永禄4年(1561)2月9日、直親とひよ、さらには井伊家全体にとっても待望の長男・虎松が生まれた。

後の徳川四天王であり、井伊家を雄藩に押し上げた井伊直政である。

ただ、妙な説もある。
なぜ結婚から5年間も子供が出来なかったのか? という疑問から、様々な憶測が飛び交ったのだ。

例えば「直親が元の許婚者・直虎に気を使い、ひよとは5年間、床を共にしなかった」とか「ひよが子供を産めない身体であり、虎松は直親と直虎の子だった」とか、更には「虎松はもらい子だった」というものまで。

極めつけは『鈴木家記』に著された「神君(徳川家康)の落種(ご落胤)である」なんてのも……。

いずれもトンデモ説の範疇であろうが、ともかく何らかの理由で5年間、子ができなかったのは事実であり、残念ながらその詳細は史料が無いため後学に期待したい。

ともかく待望の男児が生まれ、井伊家としては一安心。
その一方で、ますます微妙になったのが、ひよと直虎の関係である。井伊直親が生きている間は問題なかったが、虎松が生まれた翌年、直親は今川方の朝比奈泰朝に討たれてしまったのだ。

しかも、わずか2歳の虎松は井伊家の次期宗主として期待されながら、今川家からは殺害命令が出され、命を狙われるという最悪の状況に陥る。

井伊家は、今川家から見れば傘下の国人でありながら、彼らの本知が徳川や武田の勢力と接するため(裏切りやすいと思われて)、常に監視下におかれ、同時にその勢力も削がれようとしていた。
虎松の命と同時に、御家の存続すら危ぶまれるようになったのだ。

 

今川家に命を狙われ、家臣にも追いやられ

むろん井伊家もこの危機を黙って見過ごすワケはない。

例えば今川家重臣でもあった新野左馬助は助命嘆願に奔走する。

新野は、妻がひよの叔母(奥山朝利の妹)であり、また妹(娘とも)は井伊直盛の正室でもあった。井伊家とは非常に深い関わりがあり、虎松の命を助けようとしたのも頷ける。

しかし、運悪く新野左馬助も間もなく合戦で討死してしまい、ついに後ろ盾の武将を失ってしまう。

虎松は、ひよの実家・奥山家で育てるか、直虎が養子として引き取って次の宗主として育てるか、あるいはかつての実父・井伊直親がそうであったように信州(長野)へ逃亡させるか、過酷な選択を迫られた。

残念なことに、これら諸説の真贋はいずれも不明である。
井伊直政の研究書でも「幼児期は、親戚宅や寺をたらい回しにされた」とお茶を濁しており、結論は出ていない。

そこで同時に浮上してくるのが、直親亡き後の井伊家は「直虎が宗主だったのか?」という疑問である。

井伊家の宗主一覧に直虎の名は無い。

それは「直虎が女だから」とする一方、「宗主は虎松で、直虎は後見人(補佐役)だったから」とも言われており、実際、『井伊家伝記』には、直虎の地頭就任後に虎松が井伊谷に帰ってきたと記されている。
要は、直虎が虎松の後見人となったのだ。

むろん彼女だけでは心もとなく、直虎の母・祐椿尼(ゆうちんに)、ひよと3人で虎松を守ることになったが、いかんせん女所帯では力及ばず、結果、筆頭家老の小野但馬守政次(高橋一生さん)の権勢が強化、今川家の後押しを得て井伊領の横領を企てるようになる。

そして永禄11年(1568年)、直虎が地頭職を解任されて小野政次が城主になると、直虎・ひよ・祐椿尼と虎松の4人は命を狙われ、龍潭寺の松岳院へ逃げ込むことになった。

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松岳院跡地

松岳院へ逃げ込んだひよ&虎松母子については、一つ興味深いエピソードが残されている。

現在、同敷地内に案内板があり、その文言を一部引用させていただこう。

【案内板】この時期虎松母子は、祖母(※祐椿尼)・叔母(※直虎)に保護され龍潭寺内松岳院に身を寄せていました。
直政の母はお地蔵さまを造り、ひそかに境内に祀リ、その傍らに神木「なぎ」を植え、我が子の安泰を日々念じていました。

以下がその子育て地蔵である。

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松岳院横の子育て地蔵とナギの木

もしも龍潭寺に行かれた折には、境内・仁王門前にある、この地蔵様にもお立ち寄りいただきたい。

お手を合わせれば、一人息子に対する彼女の深い愛情に触れることができるかもしれない。
※現地では実際に我が子の成長(井伊直政のように出世して欲しい?)を祈るお母さんもおられます

 

一時は井伊家が途絶えるも家康の許しを得て復姓を果たす

小野政次に追われ井伊領から逃げ出した直虎・祐椿尼・ひよ・虎松の4人。

生きていくことさえ厳しい状況に追い込まれた虎松は、更に浄土寺を経て鳳来寺へと逃げ、ひよは徳川家康の家臣・松下清景(旧井伊家家臣)と再婚した。

時同じくして井伊領のある遠江への侵攻を画策していた徳川家康は、井伊谷城主が小野政次になっていたことから井伊家は滅亡していたと思ったらしい。
家康は井伊直盛と共に「桶狭間の戦い」で今川軍の先鋒を務めていたので、同家に対して一定の親近感は覚えていたのだろう。

そして天正2年(1574年)12月14日。

父・直親の13回忌法要に際し、虎松が鳳来寺から龍潭寺へやって来ると、直虎・ひよ・祐椿尼に加えて井伊家の参謀的僧侶であった南渓和尚は4人で相談し、一大決心を推し進めた。

虎松を鳳来寺へ帰さず、ひよの夫・松下清景の養子とし、徳川家康に仕官させることにしたのだ。

「井伊虎松」が「松下虎松」となった時点で、名目的には「井伊家は途絶えた」とも言えるだろう。

しかし家康は虎松の素性を聞き、「井伊家の人間が生き延びていたのか!」と驚きながらも復姓を許し、「井伊万千代」として同家の再興を叶える。
なお、徳川家に攻めこまれた小野政次は、戦うことなく将兵たちに逃げられ、無残な最期を遂げている。

 

ひよ臨終のとき直政は上田合戦で戦っていた

徳川家康の配下となり、武田家の猛将・山県昌景の赤備えを受け継いだ井伊直政は、その後、数多の戦場で功績を残し、家康の天下統一に多大なる貢献を果たす。

「井伊の赤鬼」として畏怖され、彦根藩を作ったことでも有名であろう。

その裏では、直政を守った祐椿尼も祐圓尼(ゆうえんに・出家した直虎)も、そして、ひよも次々と亡くなっていく。

一刻でも早く出世しようと戦いに明け暮れていた井伊直政は、戦乱の世の定めからは逃れられず、彼女たちの死に目に立ち会うことはできなかった。

ひよが1585年8月6日に松下屋敷で亡くなった時、直政は上田合戦の最中だったという。

1年後の2回忌には現れたというから、その無念はいかばかりだろうか。井伊家千年(井伊谷600年・彦根400年)の繁栄は、院号を「永護院」という、ひよによっても守られていたことを直政は感謝しているに違いない。

井伊家歴代墓所の供養塔群

井伊家歴代墓所の供養塔群・右から祐椿尼、直虎、直親、ひよ、直政

著者:戦国未来
戦国史と古代史に興味を持ち、お城や神社巡りを趣味とする浜松在住の歴史研究家。
モットーは「本を読むだけじゃ物足りない。現地へ行きたい」行動派。今後、全31回予定で「おんな城主 直虎 人物事典」を連載する。

自らも電子書籍を発行しており、代表作は『遠江井伊氏』『井伊直虎入門』『井伊直虎の十大秘密』の“直虎三部作”など。
公式サイトは「Sengoku Mirai’s 直虎の城」
https://naotora.amebaownd.com/
Sengoku Mirai s 直虎の城

 



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