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【新野千賀(祐椿尼)】
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【原文】「新野左馬助、中野信濃守、討死之後、次郎法師、地頭職御勤、祐椿尼公(直盛公之内室なり)、實母御揃、直政公御養育申候」
【訳】新野左馬助が討死した後は、次郎法師・祐椿尼・しのが揃って井伊直政を養育した
次郎法師とは直政の後見人でもあった主人公・井伊直虎のことであるが、年齢的にも立場的にも祐椿尼こと千賀がリーダー格であったことは、「祐椿尼」ではなく「祐椿尼公」と敬称を伴った表記であることからもうかがえる。
ちなみに、井伊直政の母であった「しの」は、夫の井伊直親が討たれても出家をせず、まだ年齢も若かったこともあり徳川家臣の松下源太郎と再婚を果たす。
これにより跡継ぎがいなくなってしまった井伊家は一時途絶えてしまうが、後に井伊直親の子・虎松(井伊直政)が家康に引き立てられると、井伊家が再興。
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幕末まで徳川政権の中心にいたことは皆さんご存知であろう。
女3人で子(井伊直政)を守り(養育し)、再婚しても守り続けて家康に仕えさせる――彼女たちの戦略は「女ならではの戦い」であろう。
そして、その中心にいたのが祐椿尼(千賀)。
ある意味「井伊家の敵」ともいえる今川氏庶子家の人間が、井伊家存続のために奮闘してくれたのであった。
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直政の活躍を確認すると安心したかのように他界
直虎、しのと共に千賀が守ってきた虎松は、徳川家康に仕官すると井伊家を再興して「井伊万千代」と名乗った。
そして、天正6年(1578)3月7日に「鎧着初(よろいきぞめ)※1、2」を行い、翌8日の「田中城(静岡県藤枝市)攻め」で先陣を切って戦功をあげ、3000石から一気に1万石へと加増される。
この万千代の活躍に安心したのだろうか。
同年7月15日、千賀は他界した。
戒名は「松岳院殿壽窓祐椿大姉」で、享年不明。椿が好きだったことから、南渓和尚が「祐椿尼」と名付けたという。
椿といえば、後の浜松城となる引馬城で少し不思議な話が残っている。
蛇足であるが最後に加筆しておきたい。
『井伊家伝記』や『井伊直平公一代記』などによると引馬城主は井伊直平で飯尾豊前守が家老となっているが、学者によれば「引馬城主は飯尾豊前守」だという。
その飯尾豊前守の妻を「お田鶴(たづ)の方」と言い、悲劇的な最期を迎え
その死後、引馬城近くにある彼女の塚の周りに100本あまりの椿が植えられた。
手植えしたと伝わるのは、徳川家康の正室・築山御前。
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このことからお田鶴の方は「椿姫」とも呼ばれているが、学者によると「築山御前が引馬(浜松)に住んでいたことはない」という。
───では一体、誰が椿を植えたのか?
もしかして祐椿尼だったりして?
【番外編】井伊家を救った千賀の一族、新野家のその後
新野親矩の長男・甚五郎は、紆余曲折を経て後北条氏の家臣となった。
このことを知った徳川家康は、井伊直政に「呼び寄せ申すべし」と言ったが、呼び寄せる前に悲劇が起きていた。
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甚五郎は「小田原籠城之節戦死」をしてしまい、新野家は途絶えてしまったのである。
「小田原城の戦い」といえば、守備側(後北条氏)からの攻撃は太田氏房隊による蒲生氏郷陣への夜襲が唯一であり、一方、攻撃側(豊臣)からの仕掛けは井伊直政隊による蓑曲輪と捨曲輪への突撃が唯一だと言ってよい。
だとすると、井伊直政隊の誰かが、井伊直政の恩人の子である新野甚五郎を殺して、新野家を絶やしてしまったのかもしれない。
井伊直政は、その後悔や、「井伊家を救った情けの武将」である新野親矩への恩もあって、新野親矩の娘達を家臣に嫁がせている。
また、直政の次男・直孝は新野親矩の娘達に10人扶持(1年分の米を10人分)を与えている。
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※1=鎧着初(よろいきぞめ)。具足始(ぐそくはじめ)ともいう。本来は吉日を選び、日の出を合図に始めたというが、戦国時代には初陣の前日、あるいは、初陣の出陣直前に行うようになっていた。
井伊万千代の鎧着初については、天正4年(1576)の「芝原合戦」の直前とする説もある。徳川家康の命を狙おうと忍び込んだ忍者を討ち取り、300石から一気に3000石に加増された。
※2=「昇る虎(朝日)と沈む虎(夕日)」とでも言おうか。「田中城
著者:戦国未来
戦国史と古代史に興味を持ち、お城や神社巡りを趣味とする浜松在住の歴史研究家。
モットーは「本を読むだけじゃ物足りない。現地へ行きたい」行動派。今後、全31回予定で「おんな城主 直虎 人物事典」を連載する。
自らも電子書籍を発行しており、代表作は『遠江井伊氏』『井伊直虎入門』『井伊直虎の十大秘密』の“直虎三部作”など。
公式サイトは「Sengoku Mirai’s 直虎の城」
https://naotora.amebaownd.com/