井伊直盛

井伊直盛像(龍潭寺御霊屋)

井伊家

井伊直盛(直虎の父)は無骨武人!井伊家のために戦い続け桶狭間に散る

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家来200-300人がほぼ全滅

駿河・遠江・三河国を領した今川義元は永禄3年(1560)、大軍を率いて尾張国へ向かい、桶狭間で織田信長と激突した。

結果はもはや説明するまでもないだろう。

京極高次
近江の戦国武将・京極高次が「蛍大名」と揶揄されてしまった理由とその生涯

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数では圧倒的に有利な今川軍が敗北を喫し、そして義元の首がとられたワケだが、井伊家一族もこの戦いに参加していた。

『井伊家伝記』によると、「家来残らず召し連れ出陣」だったと言い、その数は200~300人にものぼる。

それがほぼ全滅に近い状態だったというから、大将をとられた当時の軍隊がいかに脆かったか、現代人の我々にも十分に想像できるだろう。

直盛は、そんな状況の中で先鋒の大将を務めていたのである。

京極高次
近江の戦国武将・京極高次が「蛍大名」と揶揄されてしまった理由とその生涯

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『井伊家伝記』では、今川義元の近習(重臣)60人以上が全て討死か追腹したので、直盛もそれに従ったという。

自分だけ逃げるわけにはいかず、奥山孫市郎に遺言と介錯を託し、後日、生首が井伊谷へ持ち帰られた。辞世は残っていない。

 

桶狭間の古戦場に「七石表」

現在、桶狭間の古戦場には「七石表」が残されている。

この戦いで亡くなった武将7名の墓の上に石標が建てられ、一号碑が今川義元、二号碑が二俣城主・松井宗信となっている。

三~七号碑は誰の墓か不明だが、そのうちの一つが井伊直盛である可能性は決して低くない。

ここを訪れいつも思うのは、直盛が追腹(義元の後を追っての切腹)をする必要は本当にあったのか?という疑問だ。

この戦いで同じく先鋒の大将だった徳川家康はその後も生き延び、そして天下を制している。

なぜ家康だけが……との思いが湧いてくる一方、その家康に、井伊家の未来を託した井伊直政井伊直親の息子)が取り立てられるのだから不思議なものだ。

最後に。

以下は、龍潭寺の「御霊屋」(おたまや)と呼ばれる位牌堂である。

井伊直盛像(龍潭寺御霊屋)

中央には井伊直盛像とその位牌。

写真には映っていないが、右側には井伊家初代・共保(ともやす)、左サイドには中興の直政(なおまさ)も置かれている。

井伊の赤鬼こと井伊直政は、後に徳川四天王として、彦根藩祖として、そして幕末まで同家の名を轟かせる礎を作った。

京極高次
近江の戦国武将・京極高次が「蛍大名」と揶揄されてしまった理由とその生涯

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しかし、その背景には徳川260年よりもずっと長い、井伊家の伝統があったことを思い出していただけると、桶狭間で追腹を召された直盛の魂も浮かばれるかもしれない。

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著者:戦国未来

戦国史と古代史に興味を持ち、お城や神社巡りを趣味とする浜松在住の歴史研究家。

モットーは「本を読むだけじゃ物足りない。現地へ行きたい」行動派。今後、全31回予定で「おんな城主 直虎 人物事典」を連載する。

自らも電子書籍を発行しており、代表作は『遠江井伊氏』『井伊直虎入門』『井伊直虎の十大秘密』の“直虎三部作”など。

公式サイトは「Sengoku Mirai’s 直虎の城」

https://naotora.amebaownd.com/

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