井伊直孝

井伊直孝/wikipediaより引用

井伊家

井伊直孝~家康に見込まれ赤鬼直政の跡を継いだ~3代目は大坂夏の陣で名誉挽回

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長宗我部盛親を討ち取る手柄

慶長20年(1615年)、【大坂夏の陣】に参戦した井伊直孝は、藤堂高虎と共に先鋒を務めると、【八尾・若江の戦い】で長宗我部盛親を討ち取ります。

さらには淀殿豊臣秀頼が立て籠もる大坂城に発砲して、最終的に死へと追い詰めたのも、井伊直孝でした。

まさしく父譲りの武勇。

さぞかし家康もホッとしたことでしょう。

この武功により5万石を加増された直孝は、従四位下侍従へと昇進を遂げると、ついに兄弟の運命は逆転します。

・弟の直孝が彦根藩主

・兄の直継改め直勝が上野安中藩主

当初は彦根藩主だった直勝の系統は、越後与板藩に移り続いていくこととなったのです。

井伊家は徳川の先鋒たれ――その命運は【大坂の陣】でも発揮されたと言えるのでしょう。

このころ家康は、国を治める倫理として朱子学を重視するようになりました。

長幼の序を重んじ、本人の資質に問題があろうとなかろうと、まずは兄を優先する。

それは後の3代将軍・徳川家光と、弟の徳川忠長で家督争いが起きたときにも、家康によって生まれの順が重視されました。

しかし、です。

井伊家の家督については、家康自らが口を出し、長幼の序ではなく資質を重んじて弟に3代目・彦根藩主を継がせたのです。

それほどまでに、井伊家は徳川家を守る家として、研ぎ澄まされた名刀のような資質を求められたのではないでしょうか。

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井伊は徳川を守る先鋒たれ

寛永9年(1632年)、秀忠は死にのぞんで、井伊直孝と松平忠明に我が子・徳川家光の将来を託しました。

これが大老職の始まりとされます。

井伊家は30万石の大藩となりました。

彦根藩は立地も抜群でした。上方にも近く、京大坂に睨みを利かせる位置にあり、東国政権の徳川幕府が西に目を光らせるための絶好の位置に井伊はあったのです。

井伊家は、幕府宿老においても特別な位置を獲得。

将軍名代としての日光東照宮参詣は、井伊家が継ぐものとされました。

さらに、外交においても重要な役割を果たしています。

幕政のターニングポイントとされる隣国・明の滅亡時における対応の仕方です。

1644年、李自成の乱と満洲族により明が滅亡すると、亡命政権である南明政権の鄭芝龍・成功父子から援軍を要請されました(【日本乞師】)。

このとき直孝は【文禄・慶長の役】を先例として挙げ、援軍要請を断るよう進言。

将軍・家光はその進言を受け入れ、度重なる援軍要請を断る一方、亡命する明人を受け入れ続けました。

そんな直孝にとって、悩みの種は井伊家の男児らしからぬ井伊直滋(なおしげ)でした。

甘やかされて育てられたせいで、どうにもならない――そして周囲からのプレッシャーに耐えきれなかったのか、万治元年(1658年)、直滋は出家遁世してしまうのです。

結果、翌万治2年(1659年)に末子の井伊直澄が世子とされました。

そして、その次の当主には直縄の嫡男である井伊直興と定め、万治2年(1659年)6月28日に直孝は死去。

享年73。

家督は直澄が継ぎました。

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