井伊直虎

絵・富永商太

井伊家

井伊直虎が今川や武田などの強国に翻弄され“おんな城主”として生きた生涯46年

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桶狭間で直虎の父・直盛は殉死

直虎の父・直盛は優れた武将であった。

それは今川義元の近習に抜擢されたことでも明らかだが、こともあろうに直盛が先鋒の大将を務めた永禄3年(1560年)の合戦があの【桶狭間の戦い】であった。

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讒言で殺された直満・直義兄弟の呪いが叶ったのか。

皆さんご存知のように今川義元は織田信長に討たれる。

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しかし直盛も、他の近習と共に追い腹をめされた。つまり殉死だ。

直盛の首は、介錯人の奥山孫市郎(奥山家は井伊家の庶子家)によって井伊谷に持ち帰られた。

父の生首を見た直虎は、さぞかし驚いたことだろう。

引佐の伝承では「直虎は、直親と別れて出家したのではなく、父の生首を見て母と共に出家した」ということになっているほどだ。

ただし、この時期は井伊家にとって悪い事ばかりでもなかった。22代直盛が死んで23代宗主となった直親に待望の男子が生まれたのである。

名は虎松。後の徳川四天王・井伊直政である。

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井伊家の人間の目は野性的であるがゆえに「虎の目の一族」と言われており、21代直宗(幼名:虎松)、22代直盛(幼名:虎松。虎丸とも)、直虎、24代直政(幼名:虎松)と「虎の系譜」が続いた。

しかし、またもや悲劇は繰り返される。

永禄5年(1562年)、家老の小野政次今川氏真(うじざね)に対し「井伊直親徳川家康と内通している」と内部告発をしたのだ。

龍潭寺を別の角度から

龍潭寺

井伊谷の奥の井平は鹿狩りで有名である。

確かに井伊直親は「鹿狩りに行く」と言って城を出ては、徳川家康の家臣に会っていた。岡崎へ行ったこともあるという。

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いずれにせよ目の前の疑いを晴らす弁明に迫られた井伊直親。

氏真のいる駿府へ出向こうとした。

しかし、掛川城下で、今川家の宿老で遠江方面を担当する城主・朝比奈泰朝に討たれてしまう。

更には直親の子である虎松(後の井伊直政)にも殺害命令が下された。

そこで今川庶子家の新野左馬助(妹が直盛の妻・直虎の叔父)が「養子にする」と言って助命を嘆願。

これが認められ、虎松は母と共に井伊谷の新野親矩宅に住んだ。

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このとき、井伊直親が誅殺されて領主不在となった井伊領は、庶子家の中野直由が一時的に管理したという。

さらに悲劇は続く。

直虎の曽祖父にして井伊家を取り仕切ってきたご意見番の直平が、永禄6年(1563)に急死したのだ。

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今川氏真の命令で天野氏の杜山城攻めに向かう最中のことだった。

 

井伊家の男は5歳の直政以外にすべて消え

直平はなぜ急死したのか。

天野氏と縁のある引馬城主・飯尾連龍(つらたつ)の妻・お田鶴の方が毒茶を飲ませたとか、敵の急襲とか、落馬などの諸説が伝わる。

そしてその飯尾連龍は、徳川家康と内通したのが翌永禄7年(1564年)に発覚し、今川氏真との合戦に発展。

氏真から攻撃命令を下された中野直由と新野親矩(にいの ちかのり)は討死してしまった。

井伊家所領の管理を任されたばかりの中野直由と、直政の助命を嘆願した新野親矩という、いわば味方の武将たちが亡き人となり、井伊家に存続の危機に陥った。

直虎が「おんな城主」となるのはまさにこのタイミング。

直虎の母・祐椿尼(ゆうちんに)南渓和尚が話し合って、次郎法師を女地頭とし、井伊直政の後見人とすることが決定した。

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次郎法師は還俗し、「井伊直虎」と名を変えて「女地頭」となったのである。

※当時の「地頭」は「領主」の意

 

直政を支える女性3名に対し小野政次が

そもそも「次郎法師」という名は、「尼ではなく僧だから還俗できる」という方便であった。

南渓和尚が考え出したもので、詭弁とも苦肉の策とも言い換えられるかもしれない。

武田信玄のように還俗しないで城主になったとする説もある。実際、現地・引佐での直虎のイメージは尼だ

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いずれにせよ女地頭となった直虎にとってその道は容易なものではなかった。

目の前には、井伊家の所領を虎視眈々と狙う小野政次(道好)がいたのである。直親殺害のキッカケともなった憎き相手だ。

一方、小野政次にとってそのときの井伊家は非常に与し易い相手だっただろう。

宗主候補の井伊直政は幼少である上に、その脇を固めるのが直虎をはじめ、彼女の母・祐椿尼と、直政の実母・ひよしかいなかったのである。

3名だけの女所帯をよいことに政次はやりたい放題振る舞うようになり、井伊領を奪おうと企んでいたという。

当時、井伊家の家臣団は、

『井伊直虎・直政――井伊谷七人衆――親戚衆・被官衆』

という構成であった。

豊臣家で言えば、

【直虎が淀君】
【直政が秀頼】
【井伊谷七人衆が五大老】

に相当すると考えてよいだろう。

たしかに女性だけで配下の男武将たちを束ねるのは簡単なコトではなかったのである。

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