今川氏真/wikipediaより引用

今川家

今川氏真は愚将か名将か~敵だった家康や信長と友好的に振る舞えるのはなぜ?

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今川氏真
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間もなく北条氏康が亡くなり、小田原にも居場所がなくなった

北条の傘のもと、一度は安堵を得た氏真は、しかしスグに戦国の非情に直面する。

元亀2年(1571)10月21日、親今川の北条氏康が死ぬと、息子の北条氏政は外交方針を転換して武田氏と和睦(「甲相一和」)。

信玄は氏政に対して氏真殺害指令を出したのである。

普通の武将であれば「もはやこれまで」と切腹し、氏政は、その首を武田信玄に見せたことであろう。

しかし、こともあろうに氏真は、浜松の家康のもとへ逃げたのである。

浜松といえば、自分が誅殺した飯尾連龍の居城・引馬城があった地であり、家康と言えば、松平氏が今川氏に差し出した人質・竹千代のことであり、家康の家臣には自分が誅殺した井伊直親の息子・井伊直政がいるのである。

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実はこんな話がある。

かつて家康の父・松平広忠は、駿府の今川義元に助けを求めたことがあった。

この時、義元は、広忠を匿ったが、そろそろ岡崎城に帰ってもいい状況になったとして、「廃タルヲ興スハ、是、武門ノ面目也」と言って帰城させている。(『家忠日記増補追加』天文5年(1536)10月10日の条)

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家康は、この恩を知っていたのだろうか、厄介な存在であるハズの氏真を匿った。

そして天正3年(1575)1月13日。38歳になった今川氏真は、上洛のため浜松城を出る。

そして再び驚くべきことに、父・義元の仇である織田信長と会見したのだ。

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信長から茶器を返却された!?

同年3月16日の京都・相国寺。

信長が2年前に建造した大船用の「百端帆」(木綿百反を繋いで作った大きな帆)を進上すると、信長は、以前、氏真が進上した今川家伝来の「千鳥の香炉」「宗祗香炉」のうち「宗祗香炉」を返したという。

さらに信長は、(氏真が)蹴鞠が得意だとという話を聞くと「4日後に行われるから、その場で披露せよ」と所望。

さすがにこればかりは氏真も怒り心頭になるかと思いきや、3月20日、相国寺において公家達と共に披露するのである。

人質にとっていた男を頼り、父の仇に所望されて蹴鞠を見せる――

常人には理解し難い場面であるが、この後、1615年の77歳まで生きているのだから、これも一つの生き方なのかもしれない。

ちなみに氏真は、駿府に下向した冷泉為益(為和の子)から和歌を、飛鳥井雅綱(飛鳥井流宗家)から蹴鞠の手ほどきを受けたとされ、どちらも、相当な腕前であったという。

そしてこのとき信長から受け取った「千鳥の香炉(参考)」は、後に豊臣秀吉徳川家康を経て尾張徳川家に引き継がれ、現在は国指定重要文化財として徳川美術館(愛知県名古屋市東区徳川町)に保存されている。

 

家康から500石を拝領し、京都で生活を始める

今川氏真は、その後、家康から近江国野洲郡(500石)を受領し、京都で暮らした。

天正3年(1575)4月、武田勝頼が三河国に侵攻したと聞くと、京都を出立して戦場へ。

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5月21日【長篠の戦い】の時には牛久保城(現・愛知県豊川市牛久保町)で後詰を務め、戦後は家康から牧野城(愛知県豊川市牧野町丁畑)を与えられたが、2年後には解任されている。

牧野城

牧野城

また、天正3年(1575)7月中旬には、徳川家康の諏訪原城(遠江国榛原郡金谷町・現・静岡県島田市)攻めに従ったという。

「諏訪之原」は、現在の「牧之原」のことで、武田氏が築城後、城内に城の守護社として諏訪大明神を祀ったことからこの名になったと伝わる。

諏訪原城は、天正3年8月に落城し「牧野城」と改名。氏真は同城主に任命されたが、天正5年(1577)3月1日には解任されて浜松に戻された。

諏訪原城

諏訪原城

つまり、今川氏真は、愛知県豊川市の牧野城主であり、静岡県島田市の牧野城主でもあったのである。

学者は「氏真は島田市の牧野城主」であり、「家康としては、遠江と駿河の境目にある諏訪原城攻めを皮切りに、元領主である氏真を前面に押し出して攻め込み、武田軍を駿河から追い出そうとしたが、期待はずれだったようである」としている。

果たして本当にそうであろうか?

氏真は、牧野城主時代に出家したらしく、解任時に発給した文書には「宗誾(そうぎん)」とある(この文書が今川家宗主として発給した現存最後のもの)。

豊川市の牧野城は、牛久保の北西に位置し、牛久保には氏真が三周忌を執行した父・義元の胴塚(現・大聖寺)がある。

思うに、今川氏真が城主になった牧野城は、旧・諏訪原城ではなく、父の墓の近くの牧野城であり、家康によって城主を解任されたのではなく、父の菩提を弔うために出家して武士をやめたので、新たな城主が選出されたのではなかろうか。

大聖寺

大聖寺

牧野城(旧・諏訪原城)主に選ばれたのは、今川氏真ではなく、松井松平家の松平忠次である。

家康は、周の武王が殷の紂王に大勝した場所が「牧野」(ぼくや・中華人民共和国河南省新郷市)であるので、「周」を含む「周防守」、さらに「家康」の「康」の一字を与えて「康親」として、「松平周防守康親」と名乗らせたという(家康は、人質時代に太原雪斎に学んだとされるだけあって、教養があり読書家でもあった)。

ともかく諏訪原城攻めに今川氏真が参戦したことは確かなようで、同城が落ちると、氏真は次の叙景歌を詠んだ。

大井川 風立らしも 薄霧の 村々うつる 瀬々の月影

【大意】大井川の複数の浅瀬に映る月にかかる夜霧の複数の塊が動いたのは、風が吹いたためだろう

牧野城主解任後の氏真の消息は不明であるが、浜松に居たと考えられる。

『浜松御在城記』の「天正7年(1579)10月9日」の記事に氏真をもてなした記述が残されているためだ。

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