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【栗山利安(善助)】
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長政の死に伴い、自らは剃髪
1615年に大坂夏の陣が終わり、
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徳川の治世がこれから本格化する――という元和3年(1617年)、善助は子の大膳利章に家督を譲ります。
官兵衛は1604年に亡くなっており、それから10数年、長政をよく補佐したのですね。
元和9年(1623年)には、主君である長政の死に伴い、自らは剃髪。隠居料7百石を拝領しています。
そして寛永8年(1631年)に死去。
享年81という大往生でした。
ドラマでは、濱田岳さんがユーモラスに軽妙さもある人物として演じていますが、史実での善助は生真面目で寡黙なタイプであったとされています。
官兵衛に仕えたころから控えめで生真面目、若い頃から落ち着きのある性格でした。
黒田家臣の中でも第一位の功績があるとされる、人柄も優れた名将です。
そんな彼の跡を継いだ子の大膳には、あまりに理不尽な運命が待ち受けておりました。
「黒田騒動」と栗山大膳
善助の息子・栗山大膳利章は、大変な騒動に巻き込まれております。
江戸の「三大御家騒動」ともされる【黒田騒動】です。
※他に加賀騒動と伊達騒動(黒田騒動に代わって仙石騒動を含む場合も)と、いずれも大藩のものですね
この騒動は、長政の子・忠之が暗愚であったことが発端です。
長政は生前、大膳に「くれぐれも忠之を頼む」と言い残しておりました。
責任感の強い大膳は、何としても長政の遺命を守り、忠之を立派な主君とすべく奮闘、諫言します。
しかし、忠之はかえって大膳を疎ましく思う様になったのです。
忠之はおべっか使いの側近で周囲を固め、幕府禁制の大型船まで建造を命令。
幕府からは「水軍力の保有」に繋がるとされ、厳しく禁じられており、もしも発覚したら「謀叛の疑いあり」で改易されてもおかしくはないほど非常識な行動です。
その他にも奢侈にふける忠之。
彼はまさに暗君と化してしまいました。
大膳の父であり、黒田家の宿老であった栗山善助が亡くなると、忠之の行動は露骨にエスカレートしました。
目の上のたんこぶである大膳を、なんとしても廃してしまおうと企み始めたのです。
ついに、大膳にも我慢の限界は訪れました。
黒田52万石を救った偉人
寛永9年(1632年)、大膳は幕府に「黒田家に、謀叛の疑いあり」と訴えます。
幕府の調査結果は、大膳の錯乱であり、逆恨みと裁定。
兎にも角にも、家臣が主君に反するということを見逃せませんでした。
現代人からすれば悪いのは圧倒的に暗君・忠之ですが、このころ最も重たい罪は主君殺しであり、社会秩序を乱すものとして絶対に許されないものでした。
結果、大膳は盛岡藩南部家へ御預、追放されてしまったのです。
一方の黒田家にはお咎めなし。
御家騒動としては穏便な処置で済みました。
例えばほぼ同時期、暗君に対して家臣が反抗するおうなカタチで起こった【会津騒動】では、加藤家の改易にまで繋がっています。
普通に考えれば黒田騒動も、最悪の結果で終わっていた可能性は否めないでしょう。
大膳が去ったあと、黒田家は家臣の合議制政治が定着し、藩政が抑制されることとなります。
自らを犠牲としてまで藩を救うことになった栗山大膳の行動は、
など、様々な作品にも描かれました。
親子二代揃って主家に尽くし、忠義に溢れた父子。
現在に至るまで、栗山大膳は「黒田52万石を救った偉人」として、地元福岡で慕われているのです。
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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link)
【参考文献】
渡邊大門『黒田官兵衛 作られた軍師像 (講談社現代新書)』(→amazon)
安藤英男『黒田官兵衛のすべて』(→amazon)
『国史大辞典』