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【豪姫】
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豪姫の産後鬱から、あわや御家騒動へ
秀家と豪姫の夫婦仲は極めてよく、二男一女に恵まれました。
心身ともに実の両親や養父母に似たんですね。
しかし、二人に暗い影が落ち始めます。
大坂(中之島)で暮らしていた豪姫は、長女を出産してから産後鬱になってしまいました。
救いを求めようとしたのでしょう。彼女は内藤ジュリア(キリシタン武将・内藤如安の妹)の手引でキリスト教を受洗すると、慌てた秀吉は秀吉で伏見稲荷に祈祷させたり、秀家も法華宗の寺院に命じて治癒の祈祷をさせます。
しかし、それでも治らずキレる秀家。
そこで領内に「法華宗→キリスト教」への改宗を命じるという、ちょっとエキセントリックな政策を打ち出してしまいました。
どうやら豪姫に付き従ってきたキリシタン武将が中心となり、キリスト教の普及を推し進めていたようなのです。
実は宇喜多秀家の領内は法華宗が中心でした。それだけに秀家の改宗政策はそう簡単に受け入れられません。
さらに朝鮮出兵で戦費が拡大。これを太閤検地による増税で賄おうとすると、宇喜多家の家臣団にも不満が溜まっていき、ついには内部分裂寸前の御家騒動へと発展してしまいます。
ゴタゴタは簡単には収束せず、あわや武力衝突か!というところで徳川家康が仲裁。
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戦いは避けられ一件落着……とはなりませんでした。
騒動を機に徳川家に取り込まれる武将が出てしまい、そしてその半年後、日本を真っ二つに分けた大戦が勃発するのです。
そう、【関ヶ原の戦い】です。
戦力を失ったまま関ヶ原へ
豊臣政権や豊臣秀吉に対して大恩のある宇喜多秀家。
当然、石田三成につきました。
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徳川家に大切な家臣を引き抜きされた後で戦力がかなり減っており、迎えた関ヶ原の戦い。
宇喜多家は西軍の中心として戦いましたが、結果的に小早川秀秋や他の武将たち(朽木元綱・脇坂安治・赤座直保・小川祐忠)の裏切りによって東軍に敗れるのは、皆さんご存知の通り。
秀秋はじめ裏切り武将たちの何人かは最初から東軍だったのでは?という見立ても有力ですが、それはさておき……。
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敗北した宇喜多家はお咎めを受けます。
しかし秀家はすぐには出頭せず、しばらく薩摩へ身を寄せて島津家にかくまってもらっていました。
このころ豪姫の元へ密かにその知らせが届き、秀家存命を隠すための工作をしていたともいわれますが、どうだったのやら。
詳細は不明ながら、戦前から四人目の子供がお腹にいて、新たに女の子を産んだなんて話もあります。
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