豪姫

絵・小久ヒロ

前田家 宇喜多家

利家の娘で秀吉の養女・豪姫~宇喜多秀家とドラマのような生涯を送る

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本来は死罪となるハズの旦那は息子達と共に八丈島へ

結局、その後秀家は出頭して八丈島へ流されます。

本来は死罪になるところを、豪姫の兄・前田利長や、ときの島津家当主・島津忠恒の嘆願によって罪を減じられたのです。

前田利長
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秀吉が生前「豪が男だったら関白を譲ったのに」とまで言っていたらしいので、日頃から聡明な女性であり、その口添えも利いたのでしょう。

秀家らは息子達と共に流罪となりました。

もちろん、豪姫もそのままではいられません。

彼女は実家に戻らされ、他の罪に問われることはありませんでした。

家康は、淀殿や秀頼のことも「女子供は関係ない」として不問にしていますから、元から豪姫をどうこうするつもりはなかったのでしょう。

その後はずっと加賀で暮らし、夫との関係は死ぬまで続きました。

八丈島へ仕送りや人材を送っていたことが有名ですね。

驚くべきことに、秀家と密かに会っていた――なんて話もあります。

といっても流罪になる前の話で、秀家が各地を逃げている最中、密かに豪姫の元に立ち寄って末娘ができたといわれているのです。

スリリングにも程がありますね。

 


葬儀には宇喜多の旧臣たちも参列していた

さすがにそれ以降は夫と再会することはできず、三十数年後の寛永十一年(1634年)5月23日に豪姫は加賀で静かに世を去りました(キリスト教は棄教していた)。

享年61。

葬儀は宇喜多家の菩提寺で行われ、宇喜多家の旧臣も参列したといわれています。

八丈島の秀家&豪姫像

日頃の関係が良くないと前田家側でも許可を出さなかったでしょうから、前田家と宇喜多家の関係も良好だったのでしょうね。

そして、豪姫が秀吉やねね、秀家はもちろん、どちらの家でも好かれていたことがよくわかります。

夫や息子と生き別れになってしまったのは残念ですが、娘二人は無事嫁ぎ先で落ち着いていますので、戦国時代の女性としては幸せなほうでしょうか。

フィクションで女性の視点から歴史を描くならば、豪姫の物語も見てみたいものです。


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長月 七紀・記

【参考】
国史大辞典
歴史読本編集部『戦国を生きた女101人(新人物文庫)』(→amazon
豪姫/Wikipedia

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