毛利隆元

毛利隆元/wikipediaより引用

毛利家

毛利隆元(元就長男)の生涯|失って初めて実感する跡取りの偉大さ

2024/08/31

1563年9月1日(永禄6年8月4日)は、毛利隆元が亡くなった日です。

中国地方の覇者・毛利元就の長男ですね。

この人について知られていることというと、元就よりも早く亡くなったことや、なかなか卑屈な手紙・言動を残していることくらいでしょうか。

そのせいで「根暗」「暗愚」との印象も持たれがちですが、生涯を追いかけて行くと、実はそうでもなかったりします。

毛利隆元/wikipediaより引用

本当はどんな人だったのでしょうか。

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毛利隆元が大内家へ 3年間を過ごす

毛利隆元は、大永三年(1523年)に生まれました。

戦国時代というとだいたい織田信長を中心に語られることが多いですが、信長は天文三年(1534年)生まれとされているので、隆元のほうが歳上になります。

割と早い時代の人なんですね。

14歳のときには、当時、毛利家のボスだった大内家へ人質に出され、山口に三年間滞在。

そこでの待遇は決して悪くはなく、いわば今川義元と徳川家康のような感じだったようです。

隆元が整った顔立ちをしていたので、大内家の当主・大内義隆には色んな意味で気に入られたとか。

大内義隆の肖像画

大内義隆/wikimedia commons

人質になった年に大内義隆のもとで元服し、「隆」の字をもらっているくらいです。

寵愛ぶりがわかるというかなんというか。

隆元も、義隆を主君・恩師として慕っていたようです。

 


突然家督を譲られるも実権は元就

毛利家に戻って初陣を果たすと、天文十五年(1546年)に突然、元就から家督を譲られております。

しかし、実際の権限は元就がずっと持っていました。

これは、大内家での三年間で、隆元が義隆の影響を受けすぎて、すっかり文学好きになってしまったことも影響しているようです。

そのため、毛利家に戻ってからは、元就や家老の志道広良(しじひろよし)によって武将としての心得を叩きこまれています。

おかげで度胸がつき、その後の戦では肝の据わったところをたびたび見せました。

【厳島の戦い】の際、悪天候で渋る元就に「今やらないでどうします!」(意訳)と活を入れたのも隆元だったとか。かっちょいい。

毛利元就の肖像画

毛利元就/wikipediaより引用

話が前後しますが、26歳のときに大内家の重臣である内藤興盛の娘・尾崎局と結婚しています。

その後なんやかんやで大内家とのつながりが切れた後も、尾崎局をとても大切にしていたそうです。

どのくらいかというと「特に用事はないけど、吉田郡山城(当時の毛利家本拠)に戻る人がいたから、ついでに手紙を届けてもらうことにしたよ」なんて手紙を書いたこともあるほど。

どう見てもノロケです、ありがとうございました。

 

弟の吉川元春や小早川隆景とは?

子供は男女ひとりずつ。

男の子が後の五大老・毛利輝元です。

毛利輝元の肖像画

毛利輝元/wikipediaより引用

夫婦仲の良さの割には少ない気もしますが、そういう体質だったかもしれませんしね。

また、隆元は金銭感覚に優れており、内政にも力を発揮したとされています。

毛利家が敵の多い状況であることをよく理解しており、また誠実な人柄で商人たちから多額の融資を受けることができました。

武功なら吉川元春、調略なら毛利元就・小早川隆景というイメージがありますが、腹が減っては……ならぬ、”金が減っては”戦はできないというもの。

他の家族が戦の下準備や戦闘ができるのは、隆元の金銭感覚と信用のおかげといっても過言ではないでしょう。

しかし、一時期離れていたこともあってか、弟の元春や隆景とはうまくいかないことも多かったようです。

これについては、隆元から元就あての手紙で

「弟達は自分の家(吉川家・小早川家)のことばかり考えているし、私のことをナメきって、何を相談するにも父上にばかり話すので困っています」(意訳)

と書いていますから、おそらく事実でしょう。

 

偉大な父のもと自らを卑下するクセ

そんな状況を危うんで元就が書いたのが「三本の矢」こと『三子教訓状』です。

一本の矢なら折れやすいけど、三本なら大丈夫!というやつですね。

この三子教訓状は弘治三年(1557年)に書かれたものですから、隆元34歳・元春27歳・隆景24歳のときのことでした。

吉川元春(右)小早川隆景の肖像画

毛利元就の息子である吉川元春(右)小早川隆景/wikipediaより引用

ついでにいうと元就は60歳です。

現代の基準でも、この歳になって兄弟げんかを親にたしなめられるというのはちょっと……という気がしますが、戦国武将の場合、放置しておくとそのうち分裂したり命が関わったりするので仕方ありません。

その後、父が正式に隠居しても、やはり実権の所在は変わりませんでした。

元就が偉大すぎたため、隆元は過剰に自分のことを卑下する癖があったので、そのせいかもしれません。

なんせ「父上が隠居したら、私は家を守っていけません。どうしてもというなら、私も息子(※当時年齢一ケタ)に家督を譲って隠居します」(意訳)とまで言っていたくらいです。

現在残っている書状の数々からも、隆元の自信のなさは見て取れます。

三十代後半の頃には、順々に中国地方各国の守護に任じられていますし、隆元を慕う家臣も少なくなかったので、もっと自信を持ってもいいはずなのですが……。

 


40歳の若さで死 その能力が改めて評価される

元就があそこまで長生きせず、隆元が名実ともに毛利家の主となっていたら、自分の実力を正しく評価することもできたかもしれません。

しかし、隆元は40歳の若さで急死してしまったため、その機会は永遠に失われてしまいました。

山陰の雄・尼子氏との戦いに注力している最中、毛利家傘下の国人に饗応された直後のことだっといわれています。

食中毒・毒殺などいろいろな説がありますが、「宴の直後」というからには、急性アルコール中毒という可能性も考えられますね。

元就の父や兄も、酒が原因で若いうちに亡くなっているといいますし、お酒の許容量がかなり少ない家系だった可能性については本サイトの執筆者・歴女医のまり先生も言及なされてますね。

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隆元が亡くなってから毛利家の収入が減ったり、うまくいかないことが多々出てきて、元就も弟達も隆元の能力を改めて認識したといいます。

だから、普段からお兄ちゃんを褒めてあげてれば……(´;ω;`)ブワッ

一昔前までは「一人だけ無能w」的なイメージで語られる一方でしたが、最近では「隆元って結構スゴイじゃん」という評価も出てきました。

世情が変わったからなのか。

隆元の色んな面が知られるようになってきたのか。

毛利元就の長男だけに、やっぱり蛙の子だったのでしょう。

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【参考】
国史大辞典
峰岸純夫/片桐昭彦『戦国武将合戦事典(吉川弘文館)』(→amazon
山本大/小和田哲男『戦国大名系譜人名事典 西国編(新人物往来社)』(→amazon
毛利隆元/wikipedia

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長月七紀

2013年から歴史ライターとして活動中。 好きな時代は平安~江戸。 「とりあえずざっくりから始めよう」がモットーのゆるライターです。 武将ジャパンでは『その日、歴史が動いた』『日本史オモシロ参考書』『信長公記』などを担当。 最近は「地味な歴史人ほど現代人の参考になるのでは?」と思いながらネタを発掘しています。

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