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【信長=うつけ者】
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今日でも有名な、乱れた行状が次に述べられています。
むしろ、こっちのほうが有名すぎて、上記のようなことはあまり知られていない感すらあります。
・服装は浴衣の半脱ぎ状態に半袴
・髪は茶筅髷(ちゃせんまげ)に紅や萌黄色の紐を巻き付けた状態
・刀は朱色の鞘の大太刀(具体的な銘や号は不明)
・町中を歩きながら栗・柿・瓜などを食べ歩く
・町中で立ったまま餅を食う
・人に寄り掛かる&人の肩にぶら下がって歩く
立ち食い&食べ歩きはまだともかく「人の肩にぶら下がって歩く」ってのがヤバイですね。小さな子供ならまだしも、成長してからだといろいろな意味でキツイでしょう。
おそらくこれは、信長なりに相手の人格や信用度を図るためだったのでしょうが……やられたほうはそんなこと思いつきませんよね。
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利家なども朱色の武具にしていたか
他、お供の人間には朱色の武具をつけさせていたといいます。
おそらくは信長の小姓として側近くに仕えていた、前田利家などが経験しているでしょう。
利家も若い頃は傾奇者だったといわれていますから、その手の趣味に目覚めるきっかけが信長だったのかもしれません。
今で言えばパリピというか。
遊び人というか。
不良少年というか。
「うつけ」と呼ぶに相応しい――。
そんなツッコミもありますが、こうした一連の服装・行動などよりも、当時の武家や貴族の子息であれば習うお勉強を疎かにしていたことが「うつけ者にされた理由」という指摘もあります。
馬術や水練に励んだことの方が武士としての成功には役立ったはずなんですけどね。
いずれにせよ、良いところよりも悪いところのほうが目立っていた若き日の信長。
当然、家中からもよそからも良くは思われていませんでした。
このことが、これまた有名な弟・織田信勝(織田信行)との対立などにつながっていきます。
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長月 七紀・記
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◆信長公記
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【参考】
国史大辞典
『現代語訳 信長公記 (新人物文庫)』(→amazon link)
『信長研究の最前線 (歴史新書y 49)』(→amazon link)
『織田信長合戦全録―桶狭間から本能寺まで (中公新書)』(→amazon link)
『信長と消えた家臣たち』(→amazon link)
『織田信長家臣人名辞典』(→amazon link)
『戦国武将合戦事典』(→amazon link)