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【信長に向け高政が放った刺客】
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お前らの悪巧みはバレている
報告を聞いた信長は、兵蔵の目通りを許しました。
そして
「奴らのことは金森が見知っているはずなので、二人で明日の朝会ってこい」
と命じます。
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逃げたり、討ち取ったりするのではなく、直接、出向いて会ってこい――というわけです。
そんなことをすれば、その場で斬り殺されてしまうのでは?
と思ったら、金森と兵蔵は信長の命ずるままに敵の宿屋まで出向き、彼らにこう伝えます。
「信長公はあなた方のことに気付いているから、今のうちに出向いてあいさつをしたほうがいいでしょう」
当然、美濃の一行はビックリ仰天です。
信長公記では割と穏やかな言い回しになっていますが、意味合いとしては
「もうお前らの悪巧みはバレてるから、今のうちに信長様へ頭を下げに行け」
くらいの感じだったでしょうね。
我が命を狙うとは 蟷螂の斧である
さすがに美濃一行はそのまま言うことを聞いたりはしなかったようです。
翌日の京都見物中、町中で信長の一行と対面しました。
そこで信長は言ってのけました。
「お前たちは、この信長の命を狙っているらしいな。まさにそれは蟷螂(とうろう)の斧というもの。それとも、ここでやってみるか?」
「蟷螂の斧」とは、かまきりが巨大な敵にも手を振り上げて威嚇するような、分不相応なことを意味します。
真っ昼間から大衆の面前でここまで言われ、美濃一行は何もできずに帰るしかありません。
京の人々は、この信長の言い分を「一城の主にふさわしくない」と眉をひそめる者がいれば、「若者らしい」と褒め称える者もおり、真逆の評価をしていたとか。
確かにこの時点では尾張すら統一していない小大名です。
そのような人物が、日本史上屈指の英雄となり、後に京都御馬揃えなどという盛大な軍事パレードをするとは露とも思わなかったでしょう。
数日後、信長は守山(滋賀県守山市)から相谷(同・東近江市)を抜け、八風峠(鈴鹿山脈)を通って、無事、清洲に帰還しました。
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信長公記をはじめから読みたい方は→◆信長公記
長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
日本歴史地名大系
太田 牛一・中川 太古『現代語訳 信長公記 (新人物文庫)』(→amazon)
日本史史料研究会編『信長研究の最前線 (歴史新書y 49)』(→amazon)
谷口克広『織田信長合戦全録―桶狭間から本能寺まで (中公新書)』(→amazon)
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谷口克広『織田信長家臣人名辞典』(→amazon)
峰岸 純夫・片桐 昭彦『戦国武将合戦事典』(→amazon)