絵・富永商太

織田家

尾張統一に信長が費やした14年間【1552年から1565年までの軌跡】

「父親の位牌に焼香ならぬ投香した」とか。

延暦寺で女子供も殺しまくった」とか。

長島一向一揆で信徒2万人を焼き殺した」とか。

インパクト大なエピソードばかりが広がりがちな織田信長

家督を継いだ当初は尾張一国どころか織田家すら掌握できず、四苦八苦していたのをご存知でしょうか?

父の織田信秀が42才で亡くなると、跡を継いだ19才の信長は「うつけ」とされ、親類衆からも「アホに従ってたら滅ぼされるわ」と次々に裏切られていくのです。

その期間、実に1552年から1565年まで。

14年にも及ぶ尾張統一の戦いを六段階にスッキリ整理してみましたので、早速、内容を確認してみましょう。

 

尾張国内に群雄割拠の親類たち

まずは始まりと終わりの確認から。

天文21年(1552年)3月に父の織田信秀が死亡。
そして信長が家督を継いでから13年後の永禄8年(1565年)、織田信清の犬山城を制して完全な尾張統一を成し遂げます。

実は1559年に尾張の主要エリアを治めていたのですが、ここでは1565年の完全統一を基準としたいと思います。

ともかく、なぜ、織田家はこれほどまでにバラバラだったのか?

答えは単純で、そもそも尾張の中で織田家はいくつも枝分かれしていたんですね。信秀死亡時の勢力図を見てみると、こんな感じです。

上四郡(葉栗・庭・中島・春日井)は守護代の織田信安が優勢

下四郡(愛知・海東・海西・知多)は守護代の織田彦五郎が優勢

犬山エリアは織田信清

※それぞれの家でも家臣の台頭や親子の争いがあったりしてバラバラ

信長が生まれた血筋は、織田家の中では傍流であり本家から見ればオマケ程度でした。

【守護】斯波氏

【守護代】織田氏

【清洲三奉行の一つ】信長の家

それがどうして勢いを持ったのか?

と言いますと、信長の祖父や父の織田信秀が津島衆を押さえて商業を盛んにしたり、室町幕府や朝廷との関係を構築したり、さらには今川や斎藤との合戦で頑張ったりして、尾張国内の親類勢から抜きん出たのでした。

織田信秀(信長の父)は経済重視の似た者親子!? 道三や義元相手に大暴れ

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戦国時代は、勝手に官位を名乗る大名が多かった中、外交力もある信秀は正式に朝廷から任官されるほど。尾張統一まで目前でしたが、42才のとき、志半ばで亡くなってしまいます。

 

尾張統一までの6ステップを確認

勇将・信秀が死に、跡を継いだ信長。
ブッ飛んだ人ですから、尾張は大変なことになります。いわゆる「うつけ」と呼ばれていて、評判が最悪だったんですね。

信長は、その実力を周囲に理解してもらう前に、あれよあれよと戦いの日々へ引きずり込まれます。特に1552年から1565年までは身内を相手にエブリデイ戦闘状態でした(桶狭間は1560年)。

漫画や映像作品では、ほとんど語られないところですので、まずは年表でざっと見ておきましょう。

【信長苦心の尾張統一】

◆第一段階

1552年 父・織田信秀が没する
1552年 赤塚の戦い……山口親子の裏切り

→若い信長は家臣たちにナメられ、父の死と同時に早速裏切られます

◆第二段階

1552年 萱津の戦い……坂井大膳らと合戦

→清州城の実力者・坂井大膳を相手に信長が快勝し、能力を見せつけましたが、まだまだ周囲は納得してくれない

◆第三段階

1553年 守護・斯波義統しばよしむねが殺害され、信長が息子の斯波義銀しばよしかねを引き受ける
1554年 清州城乗っ取り……坂井大膳は逃亡

→清州城を取り仕切っていた坂井大膳を城から追い出し、尾張の中心・清州城を手中におさめます

◆第四段階

1554年 村木城の戦い……対今川の戦い(斎藤家の安藤守就が味方)
1556年 長良川の戦い……斎藤道三斎藤義龍の戦い

→今川との戦いや、斎藤家の内紛で、結果的に後ろ盾の道三を失います

◆第五段階

1556年 稲生の戦い……弟・織田信勝と対立し、林秀貞柴田勝家らと戦う
1558年 浮野の戦い……織田信賢との合戦
1559年 岩倉城の戦い……信賢を討って、尾張の大部分を掌握

→依然として以下のエリアは勢力外
【尾張北部は織田信清】
【尾張東部は今川】

※この時期から隣国・美濃攻略もボチボチ始まります

◆第六段階
1562年 於久地城の戦い……織田信清勢との戦い
1563年 小牧山城へ移転
1565年 犬山城の戦い……織田信清を追放して尾張を完全統一

→尾張北部の犬山城と同時に美濃攻めも始め、1567年稲葉山城の戦いで美濃を制します

いかがでしょう?

息が詰まりそうなほど親類・家臣との戦いに忙殺されているのがわかりますよね。

 

尾張統一事業の合間に桶狭間の戦いで勝利って

ときに信長32歳。
19歳で家督を継いでから14年間戦い続け、ようやく一国を支配します。

何より驚きなのは家中ゴタゴタした状態で【桶狭間の戦い】に勝利していたことでしょう。

桶狭間の戦い 信長は奇襲していない?戦国初心者も超わかる信長公記36話

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詳しくは上記の別記事に譲りますが、信長軍2,000という数字は半数近くが精鋭の馬廻衆等だったため、単純に今川軍との兵数だけでは比較できないと思います。

仮に3倍の兵力と正面から対峙したって、今川軍の中には雑兵・足軽も多く含まれていたわけで。
殺しのプロ集団である武士vs半農民との戦いであれば、圧倒的に前者が有利なわけです。

いずれにせよ、家中や尾張をまとめきれないうちに【海道一の弓取り】こと今川義元という大大名を打ち破ったのですから、周辺へ能力を示す絶好のチャンスでした。

この後は徳川家康との清須同盟や美濃攻略を経て、信長率いる織田家は天下への階段を一気に駆け上がっていきます。

なお、文頭で例に挙げました

「父親の位牌に焼香ならぬ投香した」
「延暦寺で女子供まで殺しまくった」
「長島一向一揆で信徒2万人を焼き殺した」

ですが。
その字面のまま鵜呑みにできないような内容も含まれています。

よろしければ以下の記事をご参考にしてください。

「位牌に投香」
→これはおそらく事実

焼香投げつけ、政秀自害~戦国初心者にも超わかる信長公記9話

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「延暦寺の虐殺」
→遺体や焼き跡が出土せず微妙

比叡山焼き討ちの死者は意外と少ない? 信長の数千人虐殺&大炎上は誇張か

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「長島一向一揆の虐殺」
→おそらく事実だが、都合3度の戦いで織田軍も多数の武将や親族を殺されており、そのまま2万もの信徒を野に放てば石山本願寺で復讐される危険性が見えていたという事情がある

長島一向一揆で2万人を虐殺! 信長が宗徒を徹底的に潰した理由とは

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内紛ばかりの尾張統一年表

1552年 家督継承
1552年 赤塚の戦い(vs山口親子)
1552年 萱津の戦い(vs坂井大膳)
1553年 守護・斯波義銀を引き受ける
1554年 清州城を乗っ取り(vs坂井大膳)
1554年 村木城の戦い(vs今川)
1555年 長良川の戦い(道三vs義龍)
1556年 稲生の戦い(vs弟・信勝)
1558年 浮野の戦い(vs織田信賢)
1559年 岩倉城の戦い(vs織田信賢)※尾張ほぼ統一
1560年 桶狭間の戦い(vs今川義元)
1561年 梅ケ坪城の戦い(vs三宅氏)
1561年 守護・斯波義銀を追放

この辺りから新たに【美濃攻略】も始まります

1561年 森辺の戦い(vs斎藤龍興)※追放されていた前田利家が復活
1561年 十四条の合戦(vs斎藤龍興)
1562年 清洲同盟(家康と同盟)
1562年 於久地城の戦い(vs織田信清)
1563年 小牧山城へ移転
1565年 犬山城の戦い……織田信清を追放して尾張を完全統一

長月 七紀・記

【参考】
『人物叢書 織田信長』(→amazon
『現代語訳 信長公記』(→amazon
『織田信長合戦全録―桶狭間から本能寺まで (中公新書)』(→amazon
『織田信長の家臣団―派閥と人間関係(中央公論新社)』(→amazon
超わかる信長公記

 



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