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【信長の尾張統一】
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尾張統一事業の合間に桶狭間の戦いで勝利って
何より驚きなのは家中ゴタゴタした状態で、1560年(永禄3年)の【桶狭間の戦い】で勝利していたことでしょう。
桶狭間の戦い 信長の勝利は必然だったのか『信長公記』にはどう書かれている?
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詳しくは上記の別記事に譲りますが、信長軍2,000という数字は半数近くが精鋭の馬廻衆等だったため、単純に今川軍との兵数だけでは比較できないと思います。
仮に3倍の兵力と正面から対峙したって、今川軍の中には雑兵・足軽も多く含まれていたわけで。
殺しのプロ集団である武士vs半農民との戦いであれば、圧倒的に前者が有利なわけです。
いずれにせよ、家中や尾張をまとめきれないうちに【海道一の弓取り】こと今川義元という大大名を打ち破ったのですから、周辺へ能力を示す絶好のチャンスでした。
なぜ今川義元は海道一の弓取りと呼ばれる?42歳で散った生涯とは
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この後は徳川家康との清須同盟や美濃攻略を経て、信長率いる織田家は天下への階段を一気に駆け上がっていきます。
なお、文頭で例に挙げました
ですが。その字面のまま鵜呑みにできないような内容も含まれています。
よろしければ以下の記事をご参考にしてください。
「位牌に投香」
→これはおそらく事実
焼香投げつけ、政秀自害~戦国初心者にも超わかる信長公記9話
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「延暦寺の虐殺」
→遺体や焼き跡が出土せず微妙
信長の比叡山焼き討ち事件~数千人もの老若男女を虐殺大炎上させたのは盛り過ぎ?
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「長島一向一揆の虐殺」
→おそらく事実なれど、都合3度の戦いで織田軍も数多の武将や親族を殺されており、そのまま2万もの信徒を野に放てば石山本願寺で復讐される危険性が見えていたという事情がある
信長が「長島一向一揆」で敵対した宗徒2万人を虐殺~なぜ徹底的に潰したのか
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尾張統一を果たした信長は、並行して美濃の攻略に着手。
果たして1567年に稲葉山城を陥落させると、翌年には足利義昭を奉じて上洛するわけですから、尾張を固めてからは凄まじい快進撃……と言いたいところですが、実際は、あらゆる敵勢力に囲まれて過酷な戦いを強いられ続けます。
その詳細は、以下にあります信長の生涯記事をご覧いただければ幸いです。
※尾張統一を年表にもまとめておきました
内紛ばかりの尾張統一年表
1552年 家督継承
1552年 赤塚の戦い(vs山口親子)
1552年 萱津の戦い(vs坂井大膳)
1553年 守護・斯波義銀を引き受ける
1554年 清州城を乗っ取り(vs坂井大膳)
1554年 村木城の戦い(vs今川)
1555年 長良川の戦い(道三vs義龍)
1556年 稲生の戦い(vs弟・信勝)
1558年 浮野の戦い(vs織田信賢)
1559年 岩倉城の戦い(vs織田信賢)※尾張ほぼ統一
1560年 桶狭間の戦い(vs今川義元)
1561年 梅ケ坪城の戦い(vs三宅氏)
1561年 守護・斯波義銀を追放
この辺りから新たに【美濃攻略】も始まります
1561年 森辺の戦い(vs斎藤龍興)※追放されていた前田利家が復活
1561年 十四条の合戦(vs斎藤龍興)
1562年 清洲同盟(家康と同盟)
1562年 於久地城の戦い(vs織田信清)
1563年 小牧山城へ移転
1565年 犬山城の戦い……織田信清を追放して尾張を完全統一
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長月 七紀・記
【参考】
池上裕子『人物叢書 織田信長』(→amazon)
太田 牛一・中川 太古『現代語訳 信長公記 (新人物文庫)』(→amazon)
谷口克広『織田信長合戦全録―桶狭間から本能寺まで (中公新書)』(→amazon)
和田裕弘『織田信長の家臣団―派閥と人間関係(中央公論新社)』(→amazon)
桐野作人『織田信長 戦国最強の軍事カリスマ』(→amazon)
信長公記