絵・富永商太

織田家

織田信長は意外と優しい!? 生誕から本能寺まで49年の史実解説【年表付】

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なぜ浅井長政は織田信長を裏切ったのか?

理由として挙げられるのが父・久政や家臣団の強い意向と言われており、実際、浅井氏は周辺の北近江ならびに琵琶湖権益を保持する国人衆との連合勢力であった。

ゆえに長政自身が強権を発動することはかなわず、従来通り朝倉との関係を維持することになびいて、織田信長を裏切ってしまったようだ。

ただ……いざ裏切った後の浅井・朝倉の行動はグダグダだった。

現代では凡将として知られる朝倉義景の生ぬるい状況判断や、その逆に激しく迅速な織田信長の逃亡劇によって、越前から京都まで無事に帰還。浅井・朝倉の猛追をしんがり軍で受け持った羽柴秀吉明智光秀は、最後まで持ちこたえ、彼らもまた無事に逃げ戻る。

この一連の撤退戦が金ヶ崎の退き口である。

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そして京都を経て岐阜城へ戻った織田信長はすぐさま浅井討伐軍を編成した。

織田信長にとって当面の敵は浅井となった。

上記の地図をご覧のように、織田信長の岐阜城(岐阜市)から小谷城(長浜市湖北町)までは現代の距離で約56km(徒歩で11~12時間・グーグルマップより)。

山がちな土地であるため南側の大垣~関ヶ原ルートを迂回せねばならないが、それでも2日あれば十分に行軍できる距離である。馬なら1日でいけるだろう。

むろん、そんな状況は浅井家でも重々承知しており、いきなり本拠地を織田信長に晒すわけもなく、織田軍の侵攻に備えて小谷城の南方に支城を配置、そしてこの地の攻防から、これまた後世に知られる合戦が勃発した。

姉川の戦い】である。

1570年6月、織田・徳川連合軍(1.3~4万)と浅井・朝倉連合軍(1.3~3万)がぶつかった。

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発端は横山城の包囲戦から始まった野戦であり、当初、浅井・朝倉が優勢だったものが徳川の踏ん張りにより逆転、最終的に織田方が横山城奪取に成功したというのが有力説として伝わっている。

徳川の武力を世に誇るため後世に書き換えられたという説もあるが、いずれにせよ小谷城攻略への足がかりを作った織田信長。

すぐさま浅井・朝倉を立て続けに反撃……とはならなかった。この辺りから「第一次信長包囲網」と呼ばれる苦境の時期に陥ったのだ。

まず8月、足利義昭に反対していた三好三人衆が摂津(大阪府)で挙兵。これに対処すべく出向いた織田軍の間隙をついて、全国での動員兵数が日本トップクラスの石山本願寺(のちの大坂城の場所に所在)の一向宗も立ち上がり、【野田城・福島城の戦い】へ発展する。

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さらには浅井・朝倉・比叡山延暦寺が近江坂本へ軍を進めて織田軍は八方塞がりとなった。

次々に起こる脅威に対し、織田信長の周囲は生きた心地がしなかったであろう。

このとき浅井・朝倉・延暦寺の大軍に対して、寡兵で防御に徹したのが森蘭丸の実父・森可成もりよしなりであり、近江での【宇佐山城の戦い】と呼ばれる激戦で可成は命を落とすことになる。

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危機は、まだ終わりではない。

尾張のお隣・伊勢では本願寺の要請で長島一向一揆が起こり、織田信長の実弟・織田信興が自害へ追い込まれ、すわ織田軍は滅亡か――というところで繰り出したウルトラ技が「和睦」であった。

文字通り、織田軍を包囲していた浅井、朝倉、寺院勢力たちが休戦に応じたのである(1570年11月)。

織田軍を完全に囲んでおきながら、彼らはなぜそんな真似をしたのか。

そもそもは、織田信長が足利義昭を通じて、関白~天皇(正親町天皇)へと和睦を依頼し、それが首尾よくかなって勅命が発せられたのだった。

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現代人からすればなんとも解せない外交という他ないが、ともかくこの一件で窮地を脱した織田軍はいったん帰国。
一方、囲みを解いた連合軍たちはすぐさま激しく後悔することになる。

その第一の標的が延暦寺であった。

 

第二次信長包囲網

一部では「魔王」(第六天魔王)とも称せられ、恐怖の対象で見られがちな織田信長。

その一つの要因となっているのが「比叡山焼き討ち延暦寺焼き討ち)」であろう。

1571年2月、佐和山城の磯野員昌を調略した織田信長は、南近江への進出を再度可能にし、比叡山へ攻めこんだ。

前年に和睦をしたばかりの延暦寺としては憤懣やるかたない状況であろうが、一方で、同山では僧兵が跋扈し、遊女も行き交うなど、そこは宗教施設というよりもはや戦場(そして歓楽街)である。

織田信長としても京への途上に敵対する「軍事施設」が構えているのだから戦略的にはとても捨て置けない状況だ。宗教施設ではなく軍の拠点であれば、攻め込むのは自然なことであった。

しかも、この事件、最近の研究から、今まで広く知られてきた残虐非道なものでもなかったという見方もある。

延暦寺の焼き討ち事件――従来は、僧兵・僧侶のみならず女子供まで含め数千人が殺されたことになっていた。

が、発掘調査で、焼失した木材や大規模な白骨が出ることもなく「数字は操作されたものでは?」という見立ても強いのだ。

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ただ、武力と権威を合わせ持つ有力寺院としての延暦寺が消えたことには間違いない。

目の上のたんこぶ的存在だった比叡山を攻略した織田信長の、次の目標は浅井・朝倉であった。岐阜から南近江を通り、琵琶湖水運も同時に活用して京へ進むルートは確保している。

しかし、背後には浅井の小谷城があり、周辺は常に緊張状態。いつまた寝首を掻かれそうになるかわからない。

徹底的に潰すべし――。

されど、絶体絶命の状況へ陥ったのは、またもや織田信長であった。

戦国最強と称される武田信玄がついに軍を進めてきたのである。

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立ちはだかる武田軍と信玄

このとき武田信玄は、巷で言われるように京への上洛を望んでいたのか?

確かに足利義昭や畿内の諸勢力たちは信玄を頼りとして、信長討伐を催促するなど、いわゆる第二次包囲網を敷いていた。そして実際に信玄が立ち上がり、まずは徳川領内へ侵攻してきたことも事実である。

が、上洛までの道筋はさほどに簡単ではない。

桶狭間の戦いでも触れたように、あのときの今川軍は織田家との国境争いのために大軍を動員したと考えられている。

武田軍としても、徳川と織田を撃破すれば、その先に大きな敵はいないが、合戦には兵だけでなく武器も必要だし、さらには兵糧の調整も極めて重要となる(当時の兵は、実際に配られたかはさておき一日に7~10合の米が必要だったと計算されることも)。

戦国最強の武田家とて、その事情に変わりはない。

 

では何が狙いだったのか?
というと、やはり織田徳川、特に徳川家康に対する圧力だったのであろう。

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今川義元の息子・今川氏真から駿河国(静岡県中央部)を強奪した武田家にとって次に目標とすべき土地は、西側で領地を接する徳川の遠江(静岡県西部)・三河(愛知県東部)。

そこへタイミング良く、織田信長と仲違いをした足利義昭からの求めがあり、信玄は、大義名分を得た上で西上作戦を展開するのであった。

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むろん武田家とて、織田徳川だけを相手にすればよい状況でもなかったのは皆さんご存知かもしれない。

特に越後の上杉。
積年のライバルである上杉謙信が脅威となっていれば主力を西へ向けられはしない。

そして東には、甲相駿三国同盟が破綻し、信玄に対して怒りを抱いている相模の獅子こと北条氏康もいた……のであるが、北条家が三増峠の戦いで武田に手痛い敗戦を喰らい、それから間もなく氏康が死去して事情は一変、このとき武田と北条(北条氏政)は再び手を組んでいた。

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北条が武田に付けば、今度は上杉にとっては関東に目を向けなければならない状況でもある。
つまり上杉としても武田にばかり関わってる余力もなく……。

三増峠の戦い石碑

そして、信玄、動く――。

 

三方ヶ原

精強な武田騎馬軍団の中でも最強と称される赤備え・山県昌景が先陣を切って三河へ向かい、信玄本隊は、昌景と並び称されるツワモノ・馬場信春等と共に遠江へ。

対する織田信長は、これまで表面上は友好的関係を保っていた武田信玄に対して激怒し、上杉へ挙兵を求めつつ、徳川に援軍を送る。

その数、佐久間信盛と平手汎秀(ひろひで・平手政秀の息子)の約3,000。

武田3~4万に対して、1~2万とされる徳川にとって、あまりにも心もとない兵力であった。畿内で包囲網を敷かれていた織田信長も、それ以上の兵は送れなかったのである。

ついに激突する武田と徳川。一言坂の戦い、二俣城の戦いと続き、三方ヶ原の戦いへ――。

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結果は、連敗そして惨敗であった。もちろん負けたのは織田徳川連合軍である。

特に三方ヶ原の戦いで武田軍は、家康のいる浜松城を素通りするかのように見せておきながら、背後から奇襲を仕掛けようとする徳川を万全の体制で待ち構え、完膚無きまでこれを叩きのめした。
まさに格が違う両者であった。

家康は、生涯に二度、合戦で命の危機にさらされたと言われる。
そのうちの一つがこの三方ヶ原の戦いで、もう一つが大坂夏の陣における真田幸村特攻だ。

やっとのことで三方ヶ原から逃げ出し、その際、恐怖のあまり大便を漏らしたと後世に逸話が作られるほどの手痛い打撃を負い、浜松城へは這々の体で逃げ帰るという有り様。

後を追った山県昌景が警戒心を抱くことなく同城へ攻めかかっていれば、後の江戸時代は到来せずに未来は大きく変わっていただろう。

ライトアップされた浜松城――三方ヶ原の戦い後、徳川の帰還兵を受け入れるため灯りをつけて開城していたことが山県昌景の警戒心を煽り、結果、家康の命は助かったという伝説が

風雲急を告げたのは、三方ヶ原の戦いを経て、武田軍が東三河の野田城を攻略した後のこと。

連戦連勝で徳川を追い詰めていた武田軍は急に進路を変えると、そのまま本拠地・甲斐へ帰国してしまうのである。

そう、信玄の病は、もうどうにもならないところまで悪化していた。

そして元亀4年(1573年)4月、巨星墜つ――武田信玄の死は同家によって秘密が堅持されてはいたが、その不可解な撤退劇には織田信長のみならず、当の徳川家康が最も怪訝に思ったことであろう。

だからと言って甲斐信濃へ即座に攻め込むことは難しい状況だった。跡を継いだ武田勝頼は決して無能ではないと織田信長自身が評価しており、実際に領土を拡大している。

いずれにせよ一息ついた織田信長は同年7月、足利義昭と真正面から対峙することになる。

 

足利幕府の「滅亡」は「亡命政権」か

遡ること約半年前の元亀3年(1572年)10月、織田信長は足利義昭に対して『十七条の意見書』なるものを突きつけていた。

信長から義昭へ「十七箇条意見書」や「殿中御掟」には何が書かれていた?

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義昭の日頃の悪行を咎める内容であり、その例を挙げると

・朝廷に参内していない
・配下の者にケチな上、気に入らないと処罰する
・寺社に対して不親切
・訴訟の仕事は放ったらかし
・米を勝手に売りさばく

などなど、これが本当であれば「義昭、悪いのはあんたでっせ」という内容。

逆恨みのように激怒した足利義昭が武田信玄の上洛を促し、信長包囲網を敷きながら、武田軍の撤退(信玄の死)によって叶わぬものとなったのは前述の通りである。

では高々と振り上げた拳を義昭はどうしたのか?
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