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織田家

織田信広(信長の兄)敵に捕らわれ人質交換で戻った兄は謀反計画を企て

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織田信広
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凄まじきは信長の慧眼でした。

敵の動きがいつものように覇気(殺気)がなく、『これは罠だな。誰かが謀反を起こそうしているのだろう』と読み切ってしまったのです。

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とはいえ敵がいる以上、出陣しないわけにもいきません。

そこで信長は、佐脇藤右衛門に向かって「絶対に城を開けるな」と命じるだけでなく、周辺の警備も普段以上に強め、信長の帰陣まで誰も入れないよう固く申し付けたのです。

そうとは知らずにやってきた信広軍。清州城の中へ入ることもできず、そのうち美濃勢もアッサリ兵を退いてしまい、結局、裏切りの痕跡だけが残されたのでした。

しかし、信長は信広を誅するようなことはしませんでした。

ただでさえ尾張統一に苦心していた時期です。計画未遂の兄を殺してしまうより、恩を売っておき、以降は一門衆として忠誠を誓わせたほうが得だと考えたのでしょう。

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信広もまた、以降、歯向かうことなく織田家の一員として働きます。

史実に残る主な功績を4項目で見ておきましょう。

 

信長の兄という出自が重要視された

信広の功績をまずは箇条書きでまとめます。

信広5つの功績

①京都に常駐して幕府や朝廷との連絡役

②軍事面
比叡山を囲んだときに勝軍山城で守備
→岩村城で武田軍を相手に防御

足利義昭との和議を結ぶ

長島一向一揆攻め

⑤娘が丹羽長秀に嫁ぐ

一つずつ見ていきましょう。

①連絡役

足利義昭を奉じて織田信長が上洛したのは永禄11年(1568年)。

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その翌1569年から信広は京都に常駐し、元亀元年(1570年)にかけて幕府や公家とのつなぎ役を請け負っています。

相手が相手ですから、織田家の使者になるとしてそれなりの血筋や立場が大切であり、その点「信長の兄」というのは、素性の知れない家臣たちよりは効果的だったと思われます。

②軍事

安祥城の攻防で太原雪斎に捕らわれた過去があるせいか。

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合戦では重用されないかと思ったら、意外にも重要拠点での防御を勤め上げています。

ちなみに比叡山を囲んだのは浅井朝倉との戦いの延長であり、あの【比叡山焼き討ち】の前年にあたります。

③足利義昭との和議を結ぶ

これもまた「信長の兄」であり、かつて連絡役を務めていた経験が活きたものでしょう。

天正元年(1573年)に信長の名代として義昭と和議を結んだことが『兼見卿記』などに記されています。

信広は、作者の吉田兼見とは親しかったんですね。

ちなみに、この吉田兼見は明智光秀ともかなり昵懇の仲です。京都で応接役を担うために兼見は欠かせない人物でした。

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長島一向一揆攻め

問題は④の長島一向一揆です。

天正2年(1574年)、織田軍は数万もの大軍を率いて、伊勢長島に勢力を張る【長島一向一揆】と全面対決に至りました。

「2万人もの信徒を大虐殺!」として信長の非道さが挙げられる戦歴の一つですね。

しかし単純に「信長が酷い」とも言い切れません。過去に次のような因縁があったからです。

①最初に攻撃を仕掛けたのは長島一向一揆側だった

②以降、何人もの信長親類や家臣が殺されている

③信徒を野に解き放つと、次は石山本願寺に籠もって敵となる

なまじ宗教が絡んでいるだけに簡単に勝敗のつく相手ではないんですね。

詳細は以下の記事に譲りますが、

長島一向一揆で信長が宗徒2万人を虐殺! 徹底的に潰したのは何故か?

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おおよそ三度目となる天正2年(1574年)の戦いで織田軍は厳重に各拠点を囲み、兵糧攻めを徹底しました。

そしてほとんど滅亡という寸前まで追い込んだところで、700~800人の一揆勢が刀一本持ち、死物狂いで織田軍に突撃。

狙われたのが、織田信広が属する信長一門衆の部隊でした。

戦では、死を覚悟した兵が一番怖い――なんて言われますが、このときの一揆勢がまさにそうで、信長の親類だけでざっと

織田信広(信長の兄)
織田秀成(信長の弟)
織田信次(信長の叔父)
織田信成(信長の従兄弟)

上記の4名が討死しています。

その中に織田信広も入っていたのです。

 

娘が長秀に嫁いで嫡男を産む

残念ながら信長の天下統一の道半ばで兄の信広は討死してしまいました。

が、その血脈は残されます。

信広の娘が織田家の重臣として名高い丹羽長秀に嫁ぎ、嫡男である丹羽長重を産んだのです。

長重の誕生が1571年のことですから、正確に言えば長島一向一揆前に結婚&出産していたわけですが、そもそも信長親類の女性が家臣に嫁ぐケースは当時まだ少なかったようです(後に蒲生氏郷柴田勝家など)。

長秀のことを「友人」とまで信頼していた信長が、出自の低い丹羽家に肩身の狭い思いをさせぬよう、信長の血縁と結ばせたとも見られています。

以降、丹羽家は紆余曲折を経ながら徳川家康に大名として認められ、幕末まで存続しました(ただし長重の血は途絶え、奥羽越列藩同盟に参列して知行は半分になっています)。

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文:五十嵐利休(本サイト編集管理人)
絵:小久ヒロ

【参考】
国史大辞典
『現代語訳 信長公記 (新人物文庫)』(→amazon
『信長研究の最前線 (歴史新書y 49)』(→amazon
『織田信長合戦全録―桶狭間から本能寺まで (中公新書)』(→amazon
『信長と消えた家臣たち』(→amazon
『織田信長家臣人名辞典』(→amazon
『戦国武将合戦事典』(→amazon

 



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