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【堀秀政・名人久太郎】
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光秀の役を受けて長秀と家康の接待も
20代に入ってからは越前一向一揆や雑賀衆討伐などに参加し、武働きもするようになっていきます。
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1582年6月、あの本能寺の変の直前には、丹羽長秀と共に徳川家康の接待役を務めていました。
明智光秀が豊臣秀吉の援軍に向かった後のことです。
やはり、秀政が何か一点に偏ることなく、戦場でも工事でも外交でも役に立つ器用な人だったから「名人」と呼ばれるようになったのでしょうね。
前述の通り「米五郎左」と呼ばれた長秀と、経緯も実情もよく似ていたと思われます。
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また、「堀家で”荷物を運ぶ役と荷物を手配する役、どちらがエライか”という論争になったとき、自ら荷物を担いで歩き、双方を納得させた」というような、部下の人心掌握に関するエピソードもいくつかあります。
しかし、順風満帆の秀政の前に、あの事件が勃発するのでした。
秀吉に合流 秀満を自害させる
家康の接待を無事終えた秀政は、豊臣秀吉の援軍のため中国へ向かいました。
しかし、備中高松城(現・岡山県西部)を囲む秀吉の陣につくと、そのタイミングで【本能寺の変】が起きるのです。
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信長自害の知らせを聞いた秀政は、中国大返し中の秀吉に参加。
さらに、光秀の親族・明智左馬助(明智秀満)を坂本城に追い込んで、自害させました。
この功績もあってか、清州会議の後は三法師(後の織田秀信)の代官・守役となります。
秀吉からの信頼も絶大で、血縁者以外で初めて「羽柴」姓を名乗る許可をもらったといわれているほどです。
その後も柴田勝家(北ノ庄城攻め)や家康(小牧・長久手の戦い)に参加し、秀吉が関白になってからは正式な官位ももらい、ますます忙しくなっていきました。
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秀政が留守の間は父や弟が城を預かっていたとか。
九州征伐でも先鋒を務め、当然のように小田原征伐にも参加したのですが……その陣中で、突如病気になって亡くなったといわれています。
こんなにデキる人の最期としてはあっけなさすぎるというか、「???」が飛び交いますよね。
そこで浮かんできたのが次のような疑惑です。
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