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【蘭奢待】
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先例に倣い一寸八分を切り取った
3月28日の辰の刻(午前8時頃)に東大寺の蔵が開かれ、信長の特使たちは、長持に入った蘭奢待を多聞城へ運び入れました。
信長は先例に倣い、蘭奢待を一寸八分(約5.5cm)ほど切り取らせます。
東大寺側の記録では「一寸四方(一辺が約3cmの正方形)を二個切り取った」となっており、少々異なりますが……合計すれば、大きさに大差ありませんね。
信長はこの後、自分が切り取った蘭奢待の一部を正親町天皇に献上していますので、その分を称して「二箇所切り取った」と記録したのでしょうか。
ちなみに、正親町天皇に献上されたほうは、その後、毛利輝元などに分け与えられています。
「人からもらったものをさらに別の人に」というのは、現代人からするとなんだか微妙な気持ちになるかもしれませんが、皇室や公家の間ではよくあることだったようです。
明治時代の女官の追想録にも「贈答品は”贈った”という事実が大事なので、いただいた絹などをそのまま他の人に贈ることもあった」という記述があります。
閑話休題。
信長は、このとき供をした御馬廻衆にも「後々の話の種に、見ておくがいい」といい、蘭奢待を見ることを許したとか。
なんだか尊大にも見えますが、天皇の勅許がなければ見ることもできないようなものなので、ここは優しさといっても良さそうです。
一宮市の真清田神社にも一部が奉納
その後は、手元に残した蘭奢待を茶会で焚いたり、千利休や今井宗久といった茶人に分け与えたり、信長はかなり気前よく振る舞ったようです。
一部がさらに流れ流れて、真清田神社(ますみだじんじゃ・愛知県一宮市)に奉納され、現在も宝物館に展示。
蘭奢待の切り取りについて
「信長が自分の力を誇示するため、強引に天皇と東大寺を脅して切り取ったんだ!」
と指摘する方もおられるようですが、きちんと正規の手続きをしていますし、天皇にも献上しているのですがら、特に問題はなさそうです。
本当に権力を誇示するだけなら、もっと乱暴なやり方をしていたでしょう。
これまで世間の目を気にした行動も見せている信長ですから、そこまで計算していたのかもしれませんが。
明治天皇は「古めきしずか」と表現
この世に2つとない香木……となると、読み手としては香りも気になりますよね。
実は、香りに関する記述は信長公記にはありません。
熱する前の香木はほとんど香りを放たないため、切り取った日の信長や御馬廻衆は香りを楽しんだのではなく、世の中に2つとない珍品として、蘭奢待を眺めたと思われます。
前述の茶会の記録にでも、それらしきことが出ていればいいのですが……特にないようです。
あまりにも良い香り過ぎて、表現するのが難しかったのでしょうか。
明治天皇は「古めきしずか」と表現されたそうですが、何となく分かるような、わからないような……。
明治天皇の功績&エピソードまとめ~現代皇室の礎を築いたお人柄とは?
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普通の伽羅であれば一般人でも手に入りますので、それを嗅いで想像するくらいしかできませんね。
毎年秋に行われている正倉院展で、十数年に一度くらいのスパンで蘭奢待が展示されることがあるようです。
ご興味のある方はこちらから(→link)チェックしてみるのもいいかもしれません。
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信長公記をはじめから読みたい方は→◆信長公記
長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
太田牛一/中川太古『現代語訳 信長公記 (新人物文庫)』(→amazon)
日本史史料研究会編『信長研究の最前線 (歴史新書y 49)』(→amazon)
谷口克広『織田信長合戦全録―桶狭間から本能寺まで (中公新書)』(→amazon)
谷口克広『信長と消えた家臣たち』(→amazon)
谷口克広『織田信長家臣人名辞典』(→amazon)
峰岸純夫/片桐昭彦『戦国武将合戦事典』(→amazon)