織田信友

清洲城の模擬天守

織田家

信長の尾張統一に立ちはだかった織田信友(彦五郎)策士策に溺れる哀れな最期

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織田信友(彦五郎)
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信友をかつぐ清須衆にチャンス

家勢の落ちた織田信秀を、ここぞとばかりに攻撃を開始したのは「おとな衆」でした。

清州城にいた坂井大膳・坂井甚介・河尻与一といった老臣たちのことで、争いの結果、両者は翌年に和睦を結びますが、信秀と清須衆の対立が根本から解消されるには至りません。

では、再び対決したのか?

というとそうではなく、天文19年(1549年)以降、達勝の名前が文書から消えていくのです。

おそらく苛烈な業務に耐えられなくなっていたのでしょう。

天文22年(1552年)までの間に、織田大和守家の中で守護代の交代があったと考えられます。

このタイミングで織田信友(彦五郎)が守護代を継承したのかどうか。

その点は不明ながら、後に彼が後継の守護代となったことは間違いありません。

ただし、もはや彦五郎には清須城内での実権は無きに等しく、政治を動かしていた中心的存在は、先に挙げた「おとな衆」たちです。

信秀も、結局、往年の勢力を盛り返すことができないまま、天文21年(1551年)に病没。

跡を継いだのはご存知、織田信長であり、

織田信長
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こんな状況ですから尾張の主導権を狙う勢力も少なくありません。

清須城主・織田信友をかつぐ清須衆にとっても千載一遇の好機でした。

 

信長との直接対決はじまるが……

織田信友(彦五郎)と清須衆らは、案の定、織田信長に敵対する構えを見せました。

彼らはまず、信長の弟である織田信勝(信行)をかつぎ出し、逆転を狙います。

織田信勝(織田信行)
兄の信長に誅殺された織田信勝(織田信行)最後は勝家に見限られ

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天文21年(1551年)には清須衆が信長を攻め【萱津の戦い】が勃発。

しかし、この戦いで清須勢力は大将・坂井甚介らを討ち取られる大敗を喫し、かえって信長および弾正忠家の力を国内外に知らしめる結果を招いてしまいます。

信長は叔父の織田信光や、義父の斎藤道三との関係を強化します。

さらに、清須衆対策として守護の斯波義統に接近し、着々と地盤を固めていきました。

「このままではいつか確実に負けてしまう……どうしたらいい……」

清須衆は焦ったのでしょう。

彼らは「守護の斯波義統を殺害する」という危険な賭けに出ます。

信長と義統が接近すれば脅威になると考え、事前に命を奪うという一手に出たのですね。しかし……。

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