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【織田信友(彦五郎)】
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策士策に溺れて織田信友は自害させられ
結果的に斯波義統の殺害は「悪手」以外の何物でもありませんでした。
彼らは守護を殺害したことにより「主殺しの悪党」という汚名を被ってしまったのです。
加えて、父を殺された義統の嫡男・岩龍丸は、信長のもとへ逃げ込み助けを求めました。
これにより信長は大義名分を得ます。
「我こそが守護の後継者を保護する者ぞ! 主殺しの悪党(清須衆)を討つのだ!」
苦境であった清須衆は、さらに状況が悪化。
そもそも守護であり主君である斯波氏を暗殺するなど、誰がどう見ても拙い作戦だと気づくはずですが、そんな作戦が立案&実行されるほど清須城内は混乱していたのでしょう。
このときは柴田勝家の指揮する軍と戦い、清須衆は三十人程が討ち取られたとあります(安食の戦い)。
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実質的に傀儡となっていた彦五郎を操る坂井大膳は、はやる気持ちを抑えられず次の策に打って出ます。
今度は信長の後ろ盾である織田信光に接近し、信長から彼を引き離そうとしました。
信光に対しこんな条件を提示したのです。
「我らに協力をくだされば信光殿を守護代にいたしましょう。信友様と共に両守護代として、尾張の実権を握ってみませんか?」
しかしこれもまた残念な一手となってしまいます。
信光は誘いに乗るどころか、甥の信長に【清須衆の計画】を打ち明け、二人で今後の対策を協議。
信光が大膳の誘いを受けたふりをして清須城内に入ると、その場で織田信友を切腹に追い込んでしまうのでした。
哀れ信友は、ほとんど自らの采配を触れず、歴史の舞台から姿を消すことになってしまうのでした。
天下統一の「引き立て役」となった?
あれ? 打倒信長の旗手だった坂井大膳は?
ある程度の鋭い察知能力と行動力があったのでしょう。
坂井は事前に危機を察して今川方へ逃走し、そのまま歴史の表舞台から姿を消すことになります。
こうして清須勢力は壊滅しましたが、それでも信長の弟・織田信勝は後継者への道を諦めきれず、反乱を計画。
弘治2年(1556年)に【稲生の戦い】で信長に敗れ、永禄元年(1558年)に清須城内で殺されます。
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最期は、重臣だった柴田勝家にも見放され、信長の罠によって謀殺されたのでした。
長きにわたる戦いに終止符を打った信長ですが、そこからさらに多くの戦いを重ね時間をかけて尾張国内を統一。
美濃へ進出し、上洛を経て全国へ版図を拡大していくのは周知の通りですね。
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後世から見れば、織田信友や清須衆は天下統一の「引き立て役」に過ぎなかったとも言えましょう。
結果論とはいえ、傀儡の彦五郎を中心とした清須衆の作戦は随分とお粗末でした。人間、焦ると、判断が鈍ってしまうのはいつの時代も変わらないということでしょうか。
なお、ややこしい織田信長の【尾張統一】については、以下の記事にまとまっておりますので、よろしければ併せてご覧ください。
頭の中が整理されると思います。
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文:とーじん
【参考文献】
谷口克広『織田信長家臣人名辞典(吉川弘文館)』(→amazon)
谷口克広『天下人の父・織田信秀――信長は何を学び、受け継いだのか(祥伝社)』(→amazon)
岡田正人『織田信長総合事典(雄山閣出版)』(→amazon)