荒木村重

刀に刺した饅頭を織田信長に差し出され、それを食べる逸話の荒木村重(歌川国芳作)/wikipediaより引用

織田家

なぜ荒木村重は信長を裏切ったのか?妻子を無惨に処刑され道糞と蔑まれた生涯52年

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一人で有岡城を抜け出した!

こうして村重は、孤立しつつも有岡城に籠もりました。

織田家・万見重元(まんみしげもと)らの軍を破るなど奮闘もあり、抵抗を続けますが、さすがに数の差はいかんともしがたいもの。

兵糧も不足しているのに、期待していた毛利の援軍も現れず、いよいよ追い詰められていきます。

村重は表向き、自軍の将兵に対し

「決戦を挑むか、尼崎城と花隈城を明け渡して助命を願おう」

と説明していたようです。

しかし、実際の行動はそれを大幅に裏切るものでした。

天正七年(1579年)9月2日、彼はなんと、一人で有岡城を抜け出してしまうのです。

荒木村重の籠もった有岡城(伊丹城)

向かった先は嫡男・荒木村次の居城である尼崎城(大物城)でした。

有岡城の将兵からすれば、命がけで仕えてきた主に見捨てられ穏やかならぬ……どころの話ではありません。

後に残された者のうち、有岡城の代表になったのは荒木久左衛門(池田知正)です。

信長は彼らに対し、

「尼崎城と花隈城を明け渡せば、お前たちの妻子を助けよう」

と約定を取り付けます。

久左衛門たちはこのことを村重に伝えて判断を促そうとしますが、村重はあくまで抗戦を主張。困り果てた久左衛門らもまた、妻子を見捨ててどこぞへ逃げてしまいました。

村重にも直接説得を試みて失敗しています。久左衛門らを通してもダメ。

もはや「仏の顔も三度まで」というくらいですから、信長が二度の失敗をしてもなお、交渉を続ける理由も感情もなかったでしょう。そして……。

 


有岡城の戦いの酷い戦後処理

天正七年(1579年)11月、ついに城は落ちました。

ここまで1年以上の合戦を【有岡城の戦い】とか【伊丹城の戦い】など呼ばれますが、何より悲惨なのは戦後処理です。

村重の妻・だしをはじめとして、弟・妹や子女36人。

さらに村重の重臣の妻子や、身分の低い使用人が数百人。

おそらく、有岡城に残っていた人間のほぼ全てを処刑するように、信長が命じます。

12月13日、まず、だしや村重の一族を京の六条河原で処刑。重臣の妻子や使用人たち500人前後は、四軒の家に押し込めて家ごと生きたまま焼かれる――という過酷な刑に処されています。

近い時代の人々も、この凄惨な処刑に対しては、否定的な記述しかしていません。

基本的に過剰なほど信長を賛美している信長公記でさえ、以下のような書きっぷりです。

「122人の女たちが一度に悲しみ叫ぶ声が、天にも届くばかりに上がり、これを見る人々も涙を抑えることができなかった。見た人は、20日も30日もその光景が目に焼き付いて離れなかった」

地獄の鬼の呵責かと思われた」

他に『立入左京亮宗継入道隆佐記(たてりさきょうのすけにゅうどうりゅうさき)』という記録には、こう書かれています。

「このような恐ろしい御成敗は、仏様の時代から考えても初めてのことだろう」

戦国時代でも前代未聞の処罰だったわけです。

端的に言うと、”村重や久左衛門らが逃げた結果、数百人が悲惨な処刑をされた”ことになります。

しかも将兵が戦で命を落としたならともかく、従来ならば降伏すれば助命されることも多い女性たちまでですから、その苛烈さは想像を絶するでしょう。

当時の常識で、このような場合に妻子を残すのであれば、「いざというときは誇りを守って自害するように」もしくは「降伏すれば命だけは助かるだろうから、そうしろ」と指示を残しておくもの。

それすらしていなかったであろうあたりに、有岡城に残された人々の悲劇性が強まります。

『信長公記』においても「妻子を見捨てて自分たちだけが助かろうなどというのは、前代未聞」としています。

村重にも、この件の噂くらいは伝わったでしょうが……その後の行動がまた悪い意味ですごいものでした。

徹底的に逃げ続けるのです。

 


高野山でも僧侶数百人が殺され

まさに自分の妻子を含めた多くの女子供が処刑されていた頃、村重は、花隈城(神戸市中央区)に入っておりました。

天正八年(1580年)にこの城が池田信輝に包囲され、7月に落城するとさらに逃げ、10月には毛利氏のもとへ亡命。その後は尾道に隠れ住んでいたとか。

戦う意志はないんかい!

そうツッコミたくなってしまいますが、もしかしたら毛利氏もあまり村重をあまり歓迎していなかったのかもしれません。

織田家で城主クラスだった人物です。本来なら客将として自陣に置いても良さそうなのにそうしていない。まぁ、その辺の記録はないのであくまで想像ですが。

いずれにせよ村重に対する信長の追跡もまた苛烈を極めました。

逃げ延びていた一族を見つけ次第殺し、さらに天正九年(1581年)8月17日には、高野山金剛峯寺が村重の家臣をかくまっていたため、僧侶数百人を殺害しています。

そもそも探索しに来た信長の家臣を、高野山側が殺してしまっているので、その報復という面もありますが……。

比叡山焼き討ちの一件で、信長は寺社全てに対して苛烈だと思われがちですが、そんなことはありません。敬虔な宗派に対しては相応の接し方をしており、むしろ保護したりしております。

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「村重に味方するようなことをしたから」という理由で数百人も殺すとは……さほどに怒り狂っていたということでしょう。

信長の親戚で、長年仕えていた万見重元(万見仙千代)が、有岡城攻めの際に討死したというのも影響しているかもしれません。

【長島一向一揆】との対立でも、信長は多くの親族を失い、最終的に多くの信徒を焼き殺しています。

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また、浅井・朝倉両氏に対しても、名臣だった森可成などを殺されてからの対応はかなり苛烈なものでした。

信長は、”自分の親族や優秀な家臣の敵討ちを徹底していた”ともいえそうです。

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