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【荒木村重】
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信長に従い義昭攻めに参戦す
天正元年(1573年)3月29日。
村重は逢坂で、岐阜から京都へ向かう途中の信長を出迎えました。
このときの上洛は、将軍・義昭を攻めるためのもの。村重には細川藤孝(細川幽斎)も同行しており、
「もう将軍様を見限り、信長様に仕えます」
と宣言したようなものです。
信長は殊勝に思い、二人に褒美を与えました。村重には、名工・郷義弘の刀が下賜されています。
実際のところ、この上洛で信長と義昭は一旦和議を結ぶに終わり、同年7月に再び対立。
槙島城へ逃げた義昭を信長が攻め、村重は信長軍の一員として戦いました。
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一方、形式上は村重の主だった池田知正は義昭方。
義昭が槇島城の戦いに敗れて追放され、知正も没落します。
これにより、池田氏は摂津での権力を完全に失い、三人いた守護のうち伊丹忠親だけが残りました。
信長はこの構図を利用し、村重に忠親を攻めさせて、摂津を一元支配しようと考えたようです。
村重に摂津の大部分における支配権を与えると、当人もよく働き、天正二年(1574年)11月には伊丹城を攻略。有岡城と改めて居城とします。
さらには天正三年(1575年)、有馬の有馬氏を滅ぼして、摂津の一元支配を確立しました。
それだけではありません。
他地域の戦である【越前一向一揆】の攻略や【石山本願寺攻め】【紀州征伐】にも参加して武功を挙げ、信長からの覚えも上々といったところ。
さらには播磨の国人たちとの仲介も務めていたようです。
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こうした八面六臂の活躍で、やっかみを買ったのでしょうか。
いつしか良からぬ噂が立ち始めました。
謀反の噂が流れ、そして謀反を起こす
噂とは主に次の通り。
「村重は信長に逆らおうとしている」
「村重のいとこ・中川清秀の家臣が、石山本願寺にこっそり米を売っている」
信長の耳にも届いていたらしく、明智光秀・松井友閑・万見重元らが糾問の使者として、村重の元を訪れます。
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彼らは
「安土城へ出向き、あなたが直接信長様に弁明したほうがいいでしょう」
と告げ、村重もそうしようとしました。
しかし、清秀が反対します。
「そんなことをすれば、そのまま処刑されるに決まっている。行かないほうがいい」
運命の分かれ道――村重は清秀の話を信じてしまったのか。おそらく処刑よりはマシだと考えたのでしょう。
そのまま反逆を実行します。
おそらくや信長も「ただの噂だろうし、潔白ならば出向いてくる」と考えており、この急展開には驚いたことでしょう。
旧知の仲である小寺孝高(黒田孝高・黒田官兵衛)も村重説得に向かいましたが、すっかり覚悟を決めてしまっていたようで聞く耳を持ちません。どころか官兵衛をそのまま伊丹城内に監禁してしまいました。
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この一件で、信長はさらにブチギレ!
官兵衛が監禁されていることなど知りませんので「ヤツも裏切ったか! ならば人質を殺すまでよ!」と、嫡男・松寿丸(後の黒田長政)の処刑を秀吉に命じます。
しかし、この件に関しては竹中重治(竹中半兵衛)の機転で松寿丸は匿われ、事なきを得ています。
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それよりも問題は、残された村重の親類縁者たちでしょう。
大勢の者たちがムゴい殺され方をします。
清秀と右近は当初村重に味方をしたが……
村重がクーデターを起こしたとき。
近隣の中川清秀は自らが、高山右近は村重に人質を出していたため、当初2名は村重方につきました。
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しかし織田軍が攻め寄せてくると、二人ともあえなく降参。
厳密に言えば、右近は「信長に領地を返上する」という形で屈しています。
領地がなくては兵も兵糧も用意できません。ゆえに村重への攻め手に加わらずに済む。となると、村重を裏切ったわけではなくなるので、人質を処刑されるおそれもない……というわけです。
人質は、大義名分があってこそ意味があります。
裏切り者ではない武将からの人質を殺せば、他の大名や世間からの評判がダダ下がり。
いかに倫理観の緩い戦国時代でも、世間からの信用を蔑ろにすれば国力も支配力も弱まります。
武器を買うにも戦のために他国を行き来するにも、血縁以外の者の協力が不可欠であり、この後の村重は、信長の敵対勢力と結びついて、生き残る道を模索しようとしました。
例えば以下のような勢力がおりました。
そもそも村重の謀反自体が、上記いずれかの勢力による調略だったという説もあります。
2021年現在でも村重が謀反した正確な理由はわかっていませんが、全くの無関係というわけではないのでしょう。
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