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【荒木村重】
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有岡城の戦いの酷い戦後処理
天正七年(1579年)11月、ついに城は落ちました。
ここまで1年以上の合戦を【有岡城の戦い】とか【伊丹城の戦い】など呼ばれますが、

荒木村重の籠もった有岡城(伊丹城)
何より悲惨なのは戦後処理です。
村重の妻・だしをはじめとして、弟・妹や子女36人。
さらに村重の重臣の妻子や、身分の低い使用人が数百人。
おそらく、有岡城に残っていた人間のほぼ全てを処刑するように、信長が命じます。
12月13日、まず、だしや村重の一族を京の六条河原で処刑。重臣の妻子や使用人たち500人前後は、四軒の家に押し込めて家ごと生きたまま焼かれる――という過酷な刑に処されています。
近い時代の人々も、この凄惨な処刑に対しては、否定的な記述しかしていません。
基本的に過剰なほど信長を賛美している信長公記でさえ、以下のような書きっぷりです。
「122人の女たちが一度に悲しみ叫ぶ声が、天にも届くばかりに上がり、これを見る人々も涙を抑えることができなかった。見た人は、20日も30日もその光景が目に焼き付いて離れなかった」
「地獄の鬼の呵責かと思われた」
他に『立入左京亮宗継入道隆佐記(たてりさきょうのすけにゅうどうりゅうさき)』という記録には、こう書かれています。
「このような恐ろしい御成敗は、仏様の時代から考えても初めてのことだろう」
戦国時代でも前代未聞の処罰だったわけです。
端的に言うと、”村重や久左衛門らが逃げた結果、数百人が悲惨な処刑をされた”ことになります。
しかも将兵が戦で命を落としたならともかく、従来ならば降伏すれば助命されることも多い女性たちまでですから、その苛烈さは想像を絶するでしょう。
当時の常識で、このような場合に妻子を残すのであれば、「いざというときは誇りを守って自害するように」もしくは「降伏すれば命だけは助かるだろうから、そうしろ」と指示を残しておくもの。
それすらしていなかったであろうあたりに、有岡城に残された人々の悲劇性が強まります。
『信長公記』においても「妻子を見捨てて自分たちだけが助かろうなどというのは、前代未聞」としています。
村重にも、この件の噂くらいは伝わったでしょうが……その後の行動がまた悪い意味ですごいものでした。
徹底的に逃げ続けるのです。
高野山でも僧侶数百人が殺され
まさに自分の妻子を含めた多くの女子供が処刑されていた頃、村重は、花隈城(神戸市中央区)に入っておりました。
天正八年(1580年)にこの城が池田信輝に包囲され、7月に落城するとさらに逃げ、10月には毛利氏のもとへ亡命。その後は尾道に隠れ住んでいたとか。
戦う意志はないんかい!
そうツッコミたくなってしまいますが、もしかしたら毛利氏もあまり村重をあまり歓迎していなかったのかもしれません。
織田家で城主クラスだった人物です。本来なら客将として自陣に置いても良さそうなのにそうしていない。まぁ、その辺の記録はないのであくまで想像ですが。
いずれにせよ村重に対する信長の追跡もまた苛烈を極めました。
逃げ延びていた一族を見つけ次第殺し、さらに天正九年(1581年)8月17日には、高野山金剛峯寺が村重の家臣をかくまっていたため、僧侶数百人を殺害しています。
そもそも探索しに来た信長の家臣を、高野山側が殺してしまっているので、その報復という面もありますが……。
比叡山焼き討ちの一件で、信長は寺社全てに対して苛烈だと思われがちですが、そんなことはありません。
敬虔な宗派に対しては相応の接し方をしており、むしろ保護したりしております。

高野山奥の院
「村重に味方するようなことをしたから」という理由で数百人も殺すとは……さほどに怒り狂っていたということでしょう。
信長の親戚で、長年仕えていた万見重元(万見仙千代)が、有岡城攻めの際に討死したというのも影響しているかもしれません。
【長島一向一揆】との対立でも、信長は多くの親族を失い、最終的に多くの信徒を焼き殺しています。
また、浅井・朝倉両氏に対しても、名臣だった森可成などを殺されてからの対応はかなり苛烈なものでした。
信長は、”自分の親族や優秀な家臣の敵討ちを徹底していた”ともいえそうです。
秀吉に仕えてからもドン引きの言動
【本能寺の変】で信長が斃れるまで(1582年)。
村重は尾道に隠れ続けていたと考えられています。
信長の死後は堺に移り、千利休に茶の湯を学んで、その縁で豊臣秀吉へ仕えました。
秀吉からしても、あまり気持ちの良くない相手だったでしょうに……。

豊臣秀吉/wikipediaより引用
村重も改心していたとは言われますが、その後、妻子に起きた悲劇など知らぬ存ぜぬ、と言わんばかりの言動も伝わっていて、どうにもモヤモヤした気分にさせられます。
例えば、高山右近がキリシタンであったことから、右近だけでなく小西行長を讒訴して秀吉に叱責されたり。
秀吉の留守中に秀吉の悪口を言って、北政所(秀吉の正室・ねね)にバレて逃げ出し、出家したり。
現代人から見てもドン引きですが、当時の人だって呆れ果てたでしょう……。
ただ、やはり当人は悪運が強かったのか、信長が亡くなると、村重を処罰するための正当な理由もなくなります。
そのため誰も処刑しなかっただけのことであり、ほとんどの人は近寄りたがらなかったのでは?
天正十四年(1586年)5月4日、村重は堺で亡くなっています。
享年52。
この態度からすると、どこぞで恨みを買って殺されたのではないか……と思ってしまいます。
せめて妻子らの処刑の直後に出家し、菩提を弔って余生を過ごすなどをしていれば、自責の念も見えようというものですが。
村重謀反の理由は?
村重謀反の理由は、前述の通り現代になっても不明なままです。
ざっと候補をまとめると、以下のような説があります。
・信長の側近と軋轢があったから
・黒田孝高と結託し、信長を暗殺しようとしていたから
・佐久間信盛や羽柴秀吉が西日本での重要な作戦を任されるようになり、将来に希望が持てなくなったから
・摂津の国衆や百姓が織田家の方針を嫌ったため、織田家から離反したほうがうまく統治できると考えたから
他、絵本太閤記などに少々感情的な理由が挙げられていますが、ここでは割愛。
また、徹底的に追跡された村重の子孫ですが、わずかに生き延びた人もいました。
俗説の類を除くと、有岡城落城の際、善兵衛という村重の幼い息子を細川忠興が預かり、手元で育てて細川家臣にしています。

細川忠興/wikipediaより引用
なぜ細川家が信長の目を免れたのかは、定かではありませんが……有岡城の件の前に、村重は妻の一人である明智光秀の娘を送り返していますので、これが関係あるかもしれません。
忠興の正室は、今日でも有名な光秀の娘・玉(のちの細川ガラシャ)。
つまり、村重と忠興は明智氏を通して相婿の関係です。
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また、忠興が信長に気に入られていたことも、目が届きにくかった理由かもしれません。
もしもバレれば、忠興だけでなく父・藤孝、そして細川家全体が危なかったのでは?
後半生を知れば知るほど、苦虫を噛み潰したような顔になってしまう人物。
それが荒木村重です。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
谷口克広『織田信長家臣人名辞典』(→amazon)
谷口克広『織田信長合戦全録―桶狭間から本能寺まで (中公新書)』(→amazon)
太田牛一/中川太古『現代語訳 信長公記 (新人物文庫)』(→amazon)