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【小牧山城】
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国境城主へのケアが不十分だった信長の失策!?
不満を持つ味方が、境目の城にいるとたいへん危険です。
武田信玄や真田幸綱(真田幸隆)なら真っ先に調略に取り掛かるメシウマな状況。
彼ら同様、調略が大好きな義龍が何もしてないと考えるほうが極めて不自然です。
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つまり、信清の離反は、国境の城主に対する十分なケアがなかった信長の失策とも言えるワケで、これは言い訳のしようもないでしょう。
およそ名将と呼ばれる武将は境目の城を守る部下に対し、かなりマメに苦労をねぎらいます。
手紙を頻繁に送って感謝の言葉を伝えたり、周辺情報を与えて安心させたり。
武田信玄は自分に寝返った境目の国人には「いつでも援軍を出す」と安心させる手紙を何通も出し、伊達政宗は会津と敵対した際、境目の桧原城を守る家臣・後藤信康を心から労わっていた手紙が残されています。
境目の城とは、それほどのストレスと、そのストレスに負けて寝返るリスクを内包しているのです。
そして織田信清もそのストレスと敵の甘い言葉の狭間で揺れ動き、ついに犬山城とその支城ネットワークごと美濃の斎藤方に寝返ってしまいます。
信長は、信清に姉を嫁がせているから大丈夫だとタカをくくっていたのでしょうか。
後年、同じように浅井長政に裏切られるなど、信長にはこの辺の甘さが死ぬまで直りませんね。
同じ過ちを繰り返してしまうところが信長の魅力でもあるのですが。
犬山城をどう攻略するか?てか、できるのか……
ここで犬山城について少しご紹介したいと思います。
犬山城は現存十二天守の一つとしてあまりにも有名な城ですが、今の天守は残念ながら織田信清時代のものではありません。
立地を見てみますと、犬山は「山」の字の独立峰で、これを男山と呼びます。
ちなみに連峰を女山(文字で表すと「山山」)と呼び、築城に向いているのは通常、男山とされています。
何故男と女で表現するかというと、男女の体の違いを想像すればよく分かります。
通常、男山が築城に向いていると言われています。山頂から360度見渡せて、山城の最大の弱点となる尾根伝いの攻め口もないので強固な山城となるからです。
犬山城は今でこそ風光明媚な立地として知られますが、大河の岸辺の切り立った独立峰を攻めることを想像してください。
しかも今までほぼ野戦か、城攻めについても平地の「館」規模の城しか攻めたことがない信長軍です。
「いや、ちょっと待てよ」となるでしょう。
ということで織田信清時代の犬山城で重要なポイントは「山城であること」と「美濃との境目の城であること」。
この2点でした。
相手が堅城なれば「是非もなし! 訓練あるのみ!!」
犬山城を立地的に見ると、木曽川を挟んで対岸は美濃の国となっております。
通常、川沿いの城は水運や渡しの管理を受け持ち、この木曽川も下流は尾張の大商業地区、上流は豊かな森林資源など、人と物資の交流が盛んな地域でした。
両岸を船で結ぶ「渡し」もあります。こうした通行料や渡し賃は結構なカネになり、巨大な利権を堅固な犬山城で管理する織田信清が、信長の次のターゲットとなったのです。
これは同時に、信長にとっては初めての山城攻城戦でもありました。
あの堅城は一体どうやったら攻略できるのだろう。尾張勢には、国内の平城や館相手の攻城戦しか経験がありません。
では、経験がなければどうするか?
「是非もなし! 訓練あるのみ!!」
ということで、ひたすら訓練に励むことになります。
織田信長の直轄軍(親衛隊とも言います)は、よく軍事訓練をしていたそうです。
織田家には軍事訓練の習慣はしっかりと根付いているので、適当な山を犬山城と見立てて訓練あるのみですが、清須周辺には山がありません。
また同時進行で犬山城の支城ネットワークを分断して、犬山城を孤立させなくてはなりません。訓練だけしていればいいという訳にはいきません。
ここで信長は決断します。
「是非もなし!山に引っ越すぞ」
永禄6年(1563年) いよいよ小牧山城築城へ
信長は当初、尾張北方の「本宮山(ほんぐうざん)」への本拠地の移動を提案したと言われています。
が、これは家臣団の猛反対に遭い、「な、ならば小牧山でどうだ?」と提案したところ、「そこならまだマシ」となり、小牧山への移動を決めたと言われています。
信長はもともと小牧山が第一希望であり、最初から小牧山への移動を提案すれば反対にあうので、より条件の悪い本宮山を見せ球に使ったという、なかなかの逸話ですね。
ワガママな家臣団を転がせるには面白い一手で、できすぎた話ゆえにどこまで真実か不明ながら『信長公記』にも記されています。
小牧山城移転に見る信長の知恵~戦国初心者にも超わかる信長公記42話
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地図を眺めてみると、本宮山が(見せ球でテキトーに使われた)的外れな場所であったかというと、決してそうでもありません。
本宮山は犬山城より高く、敵を見下ろせる絶好の場所に位置します。付け城戦術を指揮するには最適な場所でしょう。
ついでに山城攻略の訓練にも最適な山であり、犬山城攻略の拠点としてここ以上の山城はない。
ただし「田舎過ぎる」というのが致命的でした。
城下町を造ろうにも清須や大商業地である津島や熱田方面から遠く、この当時は商業地へ続く河川や水路もありません。
戦国時代の尾張の都市部は今よりもずっと川と水路が張り巡らされた地域でしたので、河川のない山生活など尾張の人々には想像もつきません。
彼らにとっては
【NO RIVER,NO LIFE】
なのです。
信長といえば独断即決で家臣を振り回していたイメージですが、決してそんなことはありません。家臣団の生活の充実があってこその無敵の織田軍団です。
清州城よりも断然近く、見晴らしもよい絶好の立地
そうこうしているうちに織田信清が先に動いて、本宮山のふもとにほど近い楽田城を奪取。信清も本宮山への動きを察知していたのかもしれません。
ともかくこれで小牧山への移転が決まりました。
本宮山と比べて小牧山は犬山城からやや遠いです。が、清須城よりは断然近く、さらに稲葉山城も遠望できます。
独立峰の男山なので360度のパノラマもOK。
山というより丘に近い高さですが、尾張では貴重な3次元の「高さ」です。
また小牧山城の少し西を流れる川は、途中で五条川につながっており清須城下を流れています。
これは家臣団の心理的な抵抗を和らげます。
桶狭間の戦いから3年後、1563年(永禄6年)に信長は小牧山城の築城に着手します。
当時の文献には「火車輪城」という名で出てきますが、曲輪が等高線のように段々に重なっているため「車輪」と表現されました。
また、小牧山城の本丸・主郭部分には、石垣が使用されました。
以前から本丸部分には2段構えの石垣の存在が知られていましたが、さらに3段目の石垣が発見されたというニュースもありましたね。
注意してほしいのが、石垣が使用された箇所はあくまで城の主郭、本丸(等高線の上部)を囲む部分であり、小牧山の山全体が石垣で覆われていたわけではありません。
小牧山城の山頂部分が総石垣で、残りの大部分は土塁でできた土の城です。
当時、石垣を多用した城や寺院は尾張には存在しませんでした。
信長がどこで着想を得たのかはいまだに不明ですが、最も攻撃を受けやすい山のふもとに近い部分ではなく、遠目にしか見えない主郭部に石垣を張り巡らせるという手法は「守る」というより「見せる」に力点が置かれているとも言われています。
この小牧山城の南側には家臣たちの屋敷と城下町が新設され、惣構えで城下を囲っていました。
また、小牧山の南面には山の麓から主郭に向かって一直線の大手道が配されています。
後の安土城にも見られる構造ですが、作った理由はいまいちわかっていません。
一説には、天皇を迎えるための専用通路と考えられていますが、小牧山時代の信長は、まだ天皇を迎えられるほどの位を極めておりません。
北方の犬山城に対して裏側にあたる南側にこのような直線道路を配置したことを考えると、合理的な思考から、攻撃を受けにくい箇所からの素早い出撃が可能な軍用路として配したのかもしれません。
ちなみに主郭部分に近づくとこの大手道は左右に複雑に折れ曲がる道になります。
これも安土城と酷似。
同じ小牧山の山中と言えども、主郭とそれ以外の曲輪を明確に区別していたように見受けられます。
もしくは信長の発想は山全体が城というよりも、「山頂だけが城で、残りの山の部分は城下町の延長」だった可能性も考えられますね。
日当たりの良い南側斜面は、高級住宅地のような山の手気分。そう考えると信長は、なかなかのデベロッパーぶりを発揮しています。
ここで小牧山城の誤解を一つ解いておきましょう。
小牧山城が美濃の稲葉山城攻略に備えて築城されたというような説明がネット上では散見されますが、築城を開始した当時の状況や城の位置を考えると、小牧山城は犬山城攻略の拠点と見るべきです。
もちろん稲葉山城も見据える位置にはありますが、犬山城とその支城ネットワークを破らないと稲葉山城どころか木曽川にもたどり着けません。
当面の敵は織田信清なのです。
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