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【小牧山城】
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尾張から美濃への最短ルートは結局使えない!?
以下の地図の通り、尾張から稲葉山城を目指すには、北方の木曽川渡河が最短のように見えます。
しかし、川の対岸に橋頭堡となる拠点を信長は持っていません。
仮に渡河してもその先は河川が入り組んだ広大な平野で、縦深防御が可能な斎藤軍が待ち構えています。
信長の父、信秀の代から北方の木曽川渡河は殆どうまくいったことはありません。
そもそも清須城からかなりの距離を進軍しなくては木曽川にたどり着けず、その間に斎藤方に気付かれてしまっては稲葉山城からの方が早く木曽川にたどり着けます。
よって、進軍にとって最も危険な渡河という行軍を素早く済ませるためには、清須から木曽川を最短で渡河できるポイントに素早く移動するか、斎藤方の主力部隊がやってくる前に渡河ポイントから美濃に侵入しなければならないのです。
そこで信長は稲葉山城から最も遠い長良川が大きく南に蛇行していく下流の渡河ポイントを選択します。
笄事件で謹慎中の前田利家が森部の戦いで大活躍!
「ひ、卑怯な!このドロボウ猫!」
そう斎藤家からの罵声も届かないうちの鮮やかな美濃侵攻。
信長に渡河を許した斎藤方は態勢を整えねばならず、いったん墨俣の砦に兵を集結させて信長の侵攻に備えます。
信長は川沿いを北に進み、森部という場所で斎藤方と交戦し、これを撃破。
この時に活躍したのが若き日の前田利家と云われています。
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利家は信長の寵臣を殺害した罪(いわゆる笄事件)で謹慎中でしたが、勝手に参加した桶狭間で首を取ってもまだ許されず、この【森辺の戦い】で、名の通った敵将の首を取ってようやく復帰を認められたとされております。
人生何事もやさぐれてあきらめてしまってはいけませんね~。
この野戦の勝利で信長は墨俣(洲俣)を確保し、さらに大垣城と稲葉山城を分断できる西部美濃の奥深くまで進軍しました。
あの半兵衛が駆使した「十面埋伏の計」とは?
しかしここはさすがの斎藤家。
当主が変わっても優秀な家臣団がまだまだ揃っています。
義龍の息子、新当主の斎藤龍興も出陣し、斎藤家が一丸となって織田家の侵攻を食い止めます。
この時には「十面埋伏の計」を駆使して竹中半兵衛重治が活躍したと言われています。
「十面埋伏の計」の戦術は、はっきりしたことは分かっていませんが、おそらく美濃の広い平野を利用した縦深防御のことでしょう。
桶狭間で見せたように電光石火で直線的に切り込んでくる信長の戦術は、ある程度我慢してやり過ごすことによって両側面が敵にさらされます。
それを待ち構えていた斎藤方の部隊が前後左右から襲いかかればいいのです(ただしこのような戦術は、濃尾平野のような縦深のある広い地形でこそ生かされます)。
最終的に、信長は西美濃から撤退しますが、墨俣を美濃への橋頭堡として兵を一部残存させて尾張に退きます。
美濃攻めといえば【墨俣一夜城】はどうしたんだ?
ここでいったん一呼吸おき、豊臣秀吉若かりし頃の超有名な逸話についても触れておきましょう。
逸話とは他でもありません。墨俣一夜城のことです。
【さっきから地名が何度も出てくるが、いったい当時はどうなっていたのだ?】
なんて一応疑問は呈したものの、皆さんお気づきかもしれません。
信長の侵攻ルートと電光石火の進軍があれば、墨俣に一夜で城を造る必要なんてありません。
というかそもそも森部の戦いでの斎藤方の集結地点、つまり最前線の拠点が墨俣の砦でした。墨俣一夜城の話はもう少し後の話ですが、残念ながらこの時点で既に砦=城は存在していたのです。
ということで新当主・斎藤龍興は織田信長の侵攻を食い止めて、信長は尾張に撤退していきます。ついでに墨俣の砦も結局は斎藤方に奪い返されて、信長の火事場泥棒的な美濃侵攻は事実上失敗しました。
しかしこれはあくまでボーナスステージ。それほど痛手ではありません。信長は当初の戦略に戻ればいいのです。
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信長、境目の城「犬山城」に裏切られる
この後、斎藤龍興は尾張犬山城主の織田信清を誘い自陣に引き込むことに成功します。
実際に信清が反信長の行動を起こした記録は、義龍死後の永禄5年(1562年)に、信長方の「楽田城(がくでんじょう)」を落としたというのがありますが、これより前、斎藤義龍が存命のときに既に調略にかかっていた可能性があります。
というのも斎藤義龍は桶狭間以前から尾張領内で調略しまくっていたからです。
有名なところでは信長の弟・織田信勝(織田信行)や、岩倉織田家を信長から離反させたのも斎藤義龍によるものとされています。
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織田信清は信長の従兄弟にあたる人物で、信長の姉「犬山殿(犬山城に嫁いだので犬山です。ちなみに「お犬の方」は別人です。ややこしい・・・。)」を妻にも迎えた親戚中の親戚でした。
桶狭間以前に尾張で勢力を誇っていた岩倉織田家の織田信賢を攻めたときは信長に援軍を送り、形勢を逆転させた功労者でもあります。
が、その後の岩倉織田家の旧領地の分け前に不満を持っていました。それが思わぬ……。
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