【桶狭間の戦い】で、見事に今川義元の首を取った織田信長。
しかし、その勝利は織田家の問題点を強く浮き彫りにしました。
尾張の城が戦国武将としては恥ずかしいほどショボく――籠城戦に耐えられず、他国で野戦(先制攻撃)に出るしか防衛できない――という事情を鮮明にしたのですね。
要は、城が弱い。
安土城のネームバリューから、城に強いコダワリのあるイメージの信長ですが、桶狭間でエポックメイキングを迎えるまでは大したことありませんでした。
では一体いつ頃から城に対する考え方が変わっていったのか。
中世の「館」から戦国の「山城」へ!
今回は清州城から小牧山城への変遷に伴う、織田家の城戦略の進歩に目を向けてみたいと思います。
※著者は城郭検定保持者の【お城野郎!】がお送りします
小牧山城は安土城のプロトタイプだった!?
皆さんは、小牧山城をご存知でしょうか?
この名前は秀吉と家康による【小牧・長久手の戦い】の方が有名で、城については知らない、あるいは興味が薄い方も多いかもしれません。

『小牧長久手合戦図屏風』/wikipediaより引用
小牧山城は、最近まで岐阜城の中継ぎ程度に見られていて、マニア中のマニアしか手を出さないような非常に影の薄い城でした。
そもそも築城の目的も「美濃の稲葉山城(のちの岐阜城)を攻略するため、美濃方面に拠点を移動させただけ」とか「信長の強権発動や突飛な発想によるもの」など、やや誤解されて伝わっています。
しかし!
最近の発掘調査により、いろんな事がわかってきました。
小牧山城では城下町が新設され、さらにこの時期には珍しく本丸には石垣を張り巡らされ、基本構造も後の安土城にウリ二つの【本格的な大城郭】だったことが分かってきたのです。
この前まで「型落ち中古の国産車で十分。走りゃあいいんだよ。実際、桶狭間走って勝ったし」って言ってたくせに、「やっぱりクルマは頑丈でないとね。この米軍仕様の軍用車見てよ!向こうから避けてくわ!低燃費?はっはー」というくらいの変貌ぶり。
いったい何があったのか?
気になりません?
なりますよね。
てなわけで、絶望的な築城後進国であった尾張の国に突如現れた、この小牧山城の築城を見ていきましょう!
信長 美濃の斎藤家に目をつけられる
永禄3年(1560年)の桶狭間の戦い後、とりあえず尾張東方の脅威は収まりました。
この間に松平元康(徳川家康)は今川家から半ば独立したかたちで三河の平定を目指します。
「信長とは旧知の仲で、人質時代には信長によく遊んでもらったりしたので同盟もすんなりいった」
そんな心温まるエピソード的な扱いをされてしまいますが、実際は、今川義元の死後、多少の混乱期を経て織田―徳川の国境が確定。
利害関係を一致(尾張-三河間の安全を保障)させたことにより講和が成立し、その後【清須同盟】に発展しております。
そうです。戦と外交はどこまでもリアリズムが追求されるのです。

家康の幼名は竹千代
成り立ちからしてこの「清須同盟」は「共に戦う」という性格のものではなく、「お互いに領地を侵さない」という程度のものでした。
信長による苦戦の連続の美濃攻めや最初の上洛までの間に家康がさっぱり出てこないのはそのためです。

この時期はまだ尾張は統一できていません。尾張北部は半独立・織田信清の勢力範囲でした/©2015Google,ZENRIN
道三を倒した義龍は父に似た智将
それでは桶狭間の戦い直後の尾張を取り巻く勢力図を見ていきましょう。
尾張は、清洲城を中心に、北部には犬山城を中心とした織田信清の勢力圏。
その北の木曽川の北岸には美濃の斎藤家。
南東に三河の松平(徳川)家。
もうお分かりのように信長の当面の目標は尾張を完全に自分の支配下に置くこと、すなわち尾張の統一が第一の課題でした。
そして、背後で織田信清を操る美濃の斎藤家をなんとかしなければいけないわけです。
では、この美濃斎藤家との仲はどうだったのでしょう。
美濃の斎藤家というと真っ先に思い浮かぶのは斎藤道三でしょうか。

斎藤道三/wikipediaより引用
その娘・帰蝶が織田信長に嫁ぐというのはあまりに有名な話ですが、この斎藤道三は桶狭間以前に息子・斎藤義龍の謀反で敗死してしまいます。
信長も道三に援軍を出したものの、結局は間に合いませんでした。
その後、斎藤家を率いた斎藤義龍は、かつての斎藤―織田家の婚姻関係はまるでなかったかのように織田家への圧力を強めます。
義龍は父に劣らぬ智謀に優れた武将だったようで、織田家の内紛に何かとちょっかいを出しては尾張を混乱させていました。
信長も背後の斎藤家がうっとおしくて仕方がなかったのですが、尾張国内の織田家同士の勢力争いに巻き込まれて美濃どころではありません。
義龍に見限られた浅井が織田と接近し、お市が!?
また、義龍の妻は近江の浅井家から嫁いできておりましたが、義龍は何を思ったか、その浅井家の妻と離縁。そして近江で浅井家と敵対していた六角家に娘を嫁がせるのです。
この突然の外交方針の転換により、斎藤家は浅井家とも敵対します。
そしてこれが遠因となり浅井家は織田家に接触、信長の妹「市(お市の方)」と浅井長政の婚姻につながっていくとは、あまり知られていない話かもしれません。

浅井長政(左)とお市の方/wikipediaより引用
ちなみに信長の妹「市」の結婚は永禄10年(1567年)説と永禄4年(1561年)説があります。
永禄10年説だと「市」は20才を過ぎており、この時代にしては結婚が遅く(そのため再婚説もあり)、永禄4年説だと、市の年齢(14~15才)も当時の結婚適齢期で辻褄が合うと言われております。
1561年前後でしたら、斎藤家が浅井家との同盟を破棄しており、信長とも敵対している時期ですので、浅井&織田の対斎藤家という外交戦略からしても永禄4年説はかなり有力な気がします。
いずれにせよこの後に続く織田家vs斎藤家のガチンコの争いは、信長に対しての度重なる嫌がらせと斎藤家の外交方針の転換がきっかけだったことが分かります。
これが桶狭間の戦い前後の尾張―美濃の緊迫した状況です。
またしても強運な信長! 義龍が急死す
しかし、です!
ここでまたしても信長にビッグチャンスが到来します。
なんと目の上のタンコブであった美濃の斎藤義龍が永禄4年(1561年)に病で急死してしまうのです。
いったい、度重なる嫌がらせの連続はなんだったんでしょうか。
ともあれ、戦国時代の他人の不幸は自分のチャンス。当主の死こそ最大のボーナスステージです。
信長は一気に美濃へ攻め込みます。
その素早さといったらありません。
通常、当主の死は伏せられるのですぐには情報が伝わってきませんが、信長は義龍の死の直後から兵を集めます。
この辺はさすが、城がショボかった(まだ言うか!)ため情報収集と野戦に明け暮れていた、父・織田信秀以来の伝統です。
電光石火で美濃に侵攻いたします。
尾張から美濃への最短ルートは結局使えない!?
以下の地図の通り、尾張から稲葉山城を目指すには、北方の木曽川渡河が最短のように見えます。

戦国期と現在の河川の流れはかなり違いますので注意が必要です。現在の木曽川を消してみました。こうしてみると美濃攻めのためには斎藤方の主力部隊が到着する前に渡河することが重要です。尾張北部では稲葉山城に近過ぎます/©2015Google,ZENRIN
しかし、川の対岸に橋頭堡となる拠点を信長は持っていません。
仮に渡河してもその先は河川が入り組んだ広大な平野で、縦深防御が可能な斎藤軍が待ち構えています。
信長の父、信秀の代から北方の木曽川渡河は殆どうまくいったことはありません。
そもそも清須城からかなりの距離を進軍しなくては木曽川にたどり着けず、その間に斎藤方に気付かれてしまっては稲葉山城からの方が早く木曽川にたどり着けます。
よって、進軍にとって最も危険な渡河という行軍を素早く済ませるためには、清須から木曽川を最短で渡河できるポイントに素早く移動するか、斎藤方の主力部隊がやってくる前に渡河ポイントから美濃に侵入しなければならないのです。
そこで信長は稲葉山城から最も遠い長良川が大きく南に蛇行していく下流の渡河ポイントを選択します。
笄事件で謹慎中の前田利家が森部の戦いで大活躍!
「ひ、卑怯な!このドロボウ猫!」
そう斎藤家からの罵声も届かないうちの鮮やかな美濃侵攻。
信長に渡河を許した斎藤方は態勢を整えねばならず、いったん墨俣の砦に兵を集結させて信長の侵攻に備えます。

森部の戦い。信長は斎藤方の武将を多数討ち取ります/©2015Google,ZENRIN
信長は川沿いを北に進み、森部という場所で斎藤方と交戦し、これを撃破。
この時に活躍したのが若き日の前田利家と云われています。
利家は信長の寵臣を殺害した罪(いわゆる笄事件)で謹慎中でしたが、勝手に参加した桶狭間で首を取ってもまだ許されず、この【森辺の戦い】で、名の通った敵将の首を取ってようやく復帰を認められたとされております。
人生何事もやさぐれてあきらめてしまってはいけませんね~。
この野戦の勝利で信長は墨俣(洲俣)を確保し、さらに大垣城と稲葉山城を分断できる西部美濃の奥深くまで進軍しました。
あの半兵衛が駆使した「十面埋伏の計」とは?
しかしここはさすがの斎藤家。
当主が変わっても優秀な家臣団がまだまだ揃っています。

「十四条の戦い」では野戦で斎藤方が勝利。続く「軽海(かるみ)の戦い」で織田方が斎藤方の奇襲を察知して撃退しますが、伸びきった補給線が心配だったのか、墨俣まで撤退します/©2015Google,ZENRIN
義龍の息子、新当主の斎藤龍興も出陣し、斎藤家が一丸となって織田家の侵攻を食い止めます。
この時には「十面埋伏の計」を駆使して竹中半兵衛重治が活躍したと言われています。
「十面埋伏の計」の戦術は、はっきりしたことは分かっていませんが、おそらく美濃の広い平野を利用した縦深防御のことでしょう。

©2015Google,ZENRIN
桶狭間で見せたように電光石火で直線的に切り込んでくる信長の戦術は、ある程度我慢してやり過ごすことによって両側面が敵にさらされます。
それを待ち構えていた斎藤方の部隊が前後左右から襲いかかればいいのです(ただしこのような戦術は、濃尾平野のような縦深のある広い地形でこそ生かされます)。
最終的に、信長は西美濃から撤退しますが、墨俣を美濃への橋頭堡として兵を一部残存させて尾張に退きます。
美濃攻めといえば【墨俣一夜城】はどうしたんだ?
ここでいったん一呼吸おき、豊臣秀吉若かりし頃の超有名な逸話についても触れておきましょう。
逸話とは他でもありません。墨俣一夜城のことです。
【さっきから地名が何度も出てくるが、いったい当時はどうなっていたのだ?】
なんて一応疑問は呈したものの、皆さんお気づきかもしれません。
信長の侵攻ルートと電光石火の進軍があれば、墨俣に一夜で城を造る必要なんてありません。
というかそもそも森部の戦いでの斎藤方の集結地点、つまり最前線の拠点が墨俣の砦でした。墨俣一夜城の話はもう少し後の話ですが、残念ながらこの時点で既に砦=城は存在していたのです。
ということで新当主・斎藤龍興は織田信長の侵攻を食い止めて、信長は尾張に撤退していきます。ついでに墨俣の砦も結局は斎藤方に奪い返されて、信長の火事場泥棒的な美濃侵攻は事実上失敗しました。
しかしこれはあくまでボーナスステージ。それほど痛手ではありません。信長は当初の戦略に戻ればいいのです。
信長、境目の城「犬山城」に裏切られる
この後、斎藤龍興は尾張犬山城主の織田信清を誘い自陣に引き込むことに成功します。
実際に信清が反信長の行動を起こした記録は、義龍死後の永禄5年(1562年)に、信長方の「楽田城(がくでんじょう)」を落としたというのがありますが、これより前、斎藤義龍が存命のときに既に調略にかかっていた可能性があります。
というのも斎藤義龍は桶狭間以前から尾張領内で調略しまくっていたからです。
有名なところでは信長の弟・織田信勝(織田信行)や、岩倉織田家を信長から離反させたのも斎藤義龍によるものとされています。

信清が離反したことで尾張の北半分は実質的に斎藤のものに。信長ピンチ!/©2015Google,ZENRIN
織田信清は信長の従兄弟にあたる人物で、信長の姉「犬山殿(犬山城に嫁いだので犬山です。ちなみに「お犬の方」は別人です。ややこしい・・・。)」を妻にも迎えた親戚中の親戚でした。
桶狭間以前に尾張で勢力を誇っていた岩倉織田家の織田信賢を攻めたときは信長に援軍を送り、形勢を逆転させた功労者でもあります。
が、その後の岩倉織田家の旧領地の分け前に不満を持っていました。
国境城主へのケアが不十分だった信長の失策!?
不満を持つ味方が、境目の城にいるとたいへん危険です。
武田信玄や真田幸綱(真田幸隆)なら真っ先に調略に取り掛かるメシウマな状況。
彼ら同様、調略が大好きな義龍が何もしてないと考えるほうが極めて不自然です。
つまり、信清の離反は、国境の城主に対する十分なケアがなかった信長の失策とも言えるワケで、これは言い訳のしようもないでしょう。
およそ名将と呼ばれる武将は境目の城を守る部下に対し、かなりマメに苦労をねぎらいます。
手紙を頻繁に送って感謝の言葉を伝えたり、周辺情報を与えて安心させたり。
武田信玄は自分に寝返った境目の国人には「いつでも援軍を出す」と安心させる手紙を何通も出し、伊達政宗は会津と敵対した際、境目の桧原城を守る家臣・後藤信康を心から労わっていた手紙が残されています。
境目の城とは、それほどのストレスと、そのストレスに負けて寝返るリスクを内包しているのです。
そして織田信清もそのストレスと敵の甘い言葉の狭間で揺れ動き、ついに犬山城とその支城ネットワークごと美濃の斎藤方に寝返ってしまいます。
信長は、信清に姉を嫁がせているから大丈夫だとタカをくくっていたのでしょうか。
後年、同じように浅井長政に裏切られるなど、信長にはこの辺の甘さが死ぬまで直りませんね。
同じ過ちを繰り返してしまうところが信長の魅力でもあるのですが。
犬山城をどう攻略するか?てか、できるのか……
ここで犬山城について少しご紹介したいと思います。
犬山城は現存十二天守の一つとしてあまりにも有名な城ですが、今の天守は残念ながら織田信清時代のものではありません。
立地を見てみますと、犬山は「山」の字の独立峰で、これを男山と呼びます。

犬山城を味方につけることは斎藤方にとっても尾張への橋頭堡になるばかりか、鵜沼城、伊木山城と連携することで木曽川の水運利権を確実なものにします/©2015Google,ZENRIN
ちなみに連峰を女山(文字で表すと「山山」)と呼び、築城に向いているのは通常、男山とされています。
何故男と女で表現するかというと、男女の体の違いを想像すればよく分かります。
通常、男山が築城に向いていると言われています。山頂から360度見渡せて、山城の最大の弱点となる尾根伝いの攻め口もないので強固な山城となるからです。
犬山城は今でこそ風光明媚な立地として知られますが、大河の岸辺の切り立った独立峰を攻めることを想像してください。
しかも今までほぼ野戦か、城攻めについても平地の「館」規模の城しか攻めたことがない信長軍です。
「いや、ちょっと待てよ」となるでしょう。
ということで織田信清時代の犬山城で重要なポイントは「山城であること」と「美濃との境目の城であること」。
この2点でした。
相手が堅城なれば「是非もなし! 訓練あるのみ!!」
犬山城を立地的に見ると、木曽川を挟んで対岸は美濃の国となっております。
通常、川沿いの城は水運や渡しの管理を受け持ち、この木曽川も下流は尾張の大商業地区、上流は豊かな森林資源など、人と物資の交流が盛んな地域でした。
両岸を船で結ぶ「渡し」もあります。こうした通行料や渡し賃は結構なカネになり、巨大な利権を堅固な犬山城で管理する織田信清が、信長の次のターゲットとなったのです。
これは同時に、信長にとっては初めての山城攻城戦でもありました。
あの堅城は一体どうやったら攻略できるのだろう。尾張勢には、国内の平城や館相手の攻城戦しか経験がありません。
では、経験がなければどうするか?
「是非もなし! 訓練あるのみ!!」
ということで、ひたすら訓練に励むことになります。
織田信長の直轄軍(親衛隊とも言います)は、よく軍事訓練をしていたそうです。
織田家には軍事訓練の習慣はしっかりと根付いているので、適当な山を犬山城と見立てて訓練あるのみですが、清須周辺には山がありません。
また同時進行で犬山城の支城ネットワークを分断して、犬山城を孤立させなくてはなりません。訓練だけしていればいいという訳にはいきません。
ここで信長は決断します。
「是非もなし!山に引っ越すぞ」
永禄6年(1563年) いよいよ小牧山城築城へ
信長は当初、尾張北方の「本宮山(ほんぐうざん)」への本拠地の移動を提案したと言われています。
が、これは家臣団の猛反対に遭い、「な、ならば小牧山でどうだ?」と提案したところ、「そこならまだマシ」となり、小牧山への移動を決めたと言われています。
信長はもともと小牧山が第一希望であり、最初から小牧山への移動を提案すれば反対にあうので、より条件の悪い本宮山を見せ球に使ったという、なかなかの逸話ですね。
ワガママな家臣団を転がせるには面白い一手で、できすぎた話ゆえにどこまで真実か不明ながら『信長公記』にも記されています。
-

小牧山城移転に見る信長の知恵|信長公記第42話
続きを見る
地図を眺めてみると、本宮山が(見せ球でテキトーに使われた)的外れな場所であったかというと、決してそうでもありません。

小牧山城に移転することで犬山城がぐっと近くなります(本宮山は右側の黒い拠点)/©2015Google,ZENRIN
本宮山は犬山城より高く、敵を見下ろせる絶好の場所に位置します。付け城戦術を指揮するには最適な場所でしょう。
ついでに山城攻略の訓練にも最適な山であり、犬山城攻略の拠点としてここ以上の山城はない。
ただし「田舎過ぎる」というのが致命的でした。
城下町を造ろうにも清須や大商業地である津島や熱田方面から遠く、この当時は商業地へ続く河川や水路もありません。
戦国時代の尾張の都市部は今よりもずっと川と水路が張り巡らされた地域でしたので、河川のない山生活など尾張の人々には想像もつきません。
彼らにとっては
【NO RIVER,NO LIFE】
なのです。
信長といえば独断即決で家臣を振り回していたイメージですが、決してそんなことはありません。家臣団の生活の充実があってこその無敵の織田軍団です。
清州城よりも断然近く、見晴らしもよい絶好の立地
そうこうしているうちに織田信清が先に動いて、本宮山のふもとにほど近い楽田城を奪取。信清も本宮山への動きを察知していたのかもしれません。
ともかくこれで小牧山への移転が決まりました。
本宮山と比べて小牧山は犬山城からやや遠いです。が、清須城よりは断然近く、さらに稲葉山城も遠望できます。
独立峰の男山なので360度のパノラマもOK。
山というより丘に近い高さですが、尾張では貴重な3次元の「高さ」です。
また小牧山城の少し西を流れる川は、途中で五条川につながっており清須城下を流れています。
これは家臣団の心理的な抵抗を和らげます。
桶狭間の戦いから3年後、1563年(永禄6年)に信長は小牧山城の築城に着手します。
当時の文献には「火車輪城」という名で出てきますが、曲輪が等高線のように段々に重なっているため「車輪」と表現されました。
また、小牧山城の本丸・主郭部分には、石垣が使用されました。
以前から本丸部分には2段構えの石垣の存在が知られていましたが、さらに3段目の石垣が発見されたというニュースもありましたね。
注意してほしいのが、石垣が使用された箇所はあくまで城の主郭、本丸(等高線の上部)を囲む部分であり、小牧山の山全体が石垣で覆われていたわけではありません。
小牧山城の山頂部分が総石垣で、残りの大部分は土塁でできた土の城です。
当時、石垣を多用した城や寺院は尾張には存在しませんでした。
信長がどこで着想を得たのかはいまだに不明ですが、最も攻撃を受けやすい山のふもとに近い部分ではなく、遠目にしか見えない主郭部に石垣を張り巡らせるという手法は「守る」というより「見せる」に力点が置かれているとも言われています。

今でも城下町の名残りを道路に残しています/©2015Google,ZENRIN
この小牧山城の南側には家臣たちの屋敷と城下町が新設され、惣構えで城下を囲っていました。
また、小牧山の南面には山の麓から主郭に向かって一直線の大手道が配されています。
後の安土城にも見られる構造ですが、作った理由はいまいちわかっていません。
一説には、天皇を迎えるための専用通路と考えられていますが、小牧山時代の信長は、まだ天皇を迎えられるほどの位を極めておりません。

これは安土城の大手道。左右は屋敷跡です。ここも南側に面しているので、山の手の高級住宅地という感じがします
北方の犬山城に対して裏側にあたる南側にこのような直線道路を配置したことを考えると、合理的な思考から、攻撃を受けにくい箇所からの素早い出撃が可能な軍用路として配したのかもしれません。
ちなみに主郭部分に近づくとこの大手道は左右に複雑に折れ曲がる道になります。
これも安土城と酷似。
同じ小牧山の山中と言えども、主郭とそれ以外の曲輪を明確に区別していたように見受けられます。
もしくは信長の発想は山全体が城というよりも、「山頂だけが城で、残りの山の部分は城下町の延長」だった可能性も考えられますね。
日当たりの良い南側斜面は、高級住宅地のような山の手気分。そう考えると信長は、なかなかのデベロッパーぶりを発揮しています。
ここで小牧山城の誤解を一つ解いておきましょう。
小牧山城が美濃の稲葉山城攻略に備えて築城されたというような説明がネット上では散見されますが、築城を開始した当時の状況や城の位置を考えると、小牧山城は犬山城攻略の拠点と見るべきです。
もちろん稲葉山城も見据える位置にはありますが、犬山城とその支城ネットワークを破らないと稲葉山城どころか木曽川にもたどり着けません。
当面の敵は織田信清なのです。
そして戦わずして勝つ! 小牧山城の存在感
犬山城の支城の一つであり、信清にとっては信長との境目の城に「小口城」という平城があります。
この小口城は、小牧山城が築城される前に信長と小姓衆からの力攻めを受けています。
城主の中嶋備後守は散々に崩されるも何とか城を死守。しかし小牧山城が完成すると、丹羽五郎左衛門長秀の調略によって信長に降伏します。
一説によると、小牧山城の石垣の威容と信長本隊が大挙して近所に引っ越してきたことに圧倒され、降伏を決めたと言われています。
同じく織田信清の家臣・和田新助が城主だった「黒田城」も、丹羽五郎左衛門長秀の調略により信長方に寝返っており、これで犬山城の支城ネットワークはズタズタに引き裂かれてしまいました。
特筆すべきは信長のこの時期から硬軟おり混ぜての攻略が見事なことです。
小牧山城築城の自信がなせるワザなのでしょうか。
少なくとも、もう濃尾平野の片隅で敵の攻撃をおそれて力攻めの先制攻撃を仕掛ける必要はなくなりました。
そういった心境や戦略の変化をもたらすものがこの小牧山城にはあったのでしょう。

残るは犬山城のみ。犬山城を落とすにはセットで鵜沼城、伊木山城も落とす必要があります。これは同時に美濃に橋頭堡を築くことになります/©2015Google,ZENRIN
信長は、城で相手の戦意を萎えさせるという効力を小口城の降伏開城で初めて実感しました。
特に調略だけで織田信清の支城を攻略し、犬山城を裸にした戦略は、この後の美濃攻略戦にも活かされます。
この時期には丹羽長秀だけでなく、木下藤吉郎が木曽川一帯を管理する川並衆(蜂須賀、前野など)を味方に率い入れるという活躍も『武功夜話』に記されています。
武功夜話は墨俣一夜城と同じく、かなり物語色が強いので(怪しげな記載が多いので)注意が必要ですが、この時期に木曽川の荒くれ者、おっと、私的管理者である川並衆を味方につけるというのは、戦略的にも大いにあり得ることだと考えます。
織田信清の利権を脅かしつつ犬山城を包囲、なおかつ木曽川対岸の美濃側に適当な橋頭堡を構築するのに彼らの存在は大いに役立つからです。
残念ながら木下藤吉郎が直接関わったかどうかは不明ですし、川並衆の存在すら不明です。
が、その後、木曽川の対岸、犬山城からほど近い小山の【伊木山の砦】占拠に成功したのは木下藤吉郎(豊臣秀吉)。
美濃攻めの橋頭堡を美濃国内に築くというのはかなり大きな功績でした。
この事実にいろいろな尾ひれがついて、川並衆の活躍や一夜城の話ができあがったのかもしれませんね。
永禄7年(1564年) 稲葉山城乗っ取り!
犬山城の支城を奪い、犬山城を包囲するのみとなったところで、ここでまた美濃に大事件が起こります。
斎藤龍興の居城・稲葉山城が家臣の竹中半兵衛重治と北方(きたがた)城主の安藤守就にあっさりと奪われてしまったのです。
竹中半兵衛重治は占拠後に声明を発し、美濃三人衆と言われた稲葉良通(曽根城主)、氏家直元(大垣城主)、安藤守就を美濃の国政から遠ざけ、酒色におぼれている龍興のダメさ加減を叱責。
信長は即座に、竹中半兵衛に美濃半国と引き換えに稲葉山城の明け渡しを要求します。
しかし、これは断られ、結局、半兵衛は半年ほど稲葉山城を占拠した後、斎藤龍興に返却し、自らは近江の浅井家の下に向かってしまいます。
織田方への稲葉山城の引き渡しは叶わないまでも、この一件は斎藤家が以前のような一枚岩ではないとこを内外に宣伝してしまいました。
ここから信長の怒涛の斎藤家家臣団の切り崩しが始まります。
またこの頃、足利将軍家からも上洛の要請が届くようになりました。小領主ながら莫大な金銭を持っていた信長が幕府に献金してきた結果がようやく出始めたのです。
従来、足利将軍家は斎藤家を支持していたのですが、この美濃の混乱を経て潮目が変わってきました。
ここで信長は犬山城の攻略を早めます。
城下に放火しつつ、柴田勝家、佐久間信盛という、いかにも筋肉質な軍勢で犬山城を力攻め。
犬山城対岸で信清に協力していた「鵜沼城(うぬまじょう)」の鵜沼衆に対しては、蜂須賀彦右衛門正勝や前野将右衛門長康が渡河戦を挑みます。
信清はたまらず逃走。
犬山城を捨てて武田信玄の甲斐まで落ち延び、そこで庇護されました。
ようやく尾張統一!
ここから先は、尾張勢による怒涛の美濃攻めとなりますが、そのキッカケとなった小牧山城がいかに重要な拠点だったか、ご理解いただけたでしょう。
岐阜城までのつなぎでもなければ、マニアのためのマニアな城でもない。
当時の清須城のポンコツっぷりが目に余るぐらい、尾張の城事情に革命をもたらした最新鋭の山城だったのです。

尾張統一!鵜沼城、伊木山城を橋頭堡として美濃攻略に取り掛かります/©2015Google,ZENRIN
実は、織田信長が桶狭間の戦いでの華々しい勝利の後、尾張一国を統一するのに5年もかかっております。
美濃一国の平定にはさらに2年。
桶狭間以後も決して順調ではありませんでした。
◆1560年 桶狭間の戦い
↓
5年間
↓
◆1565年 織田信清を降す
↓
2年間
↓
◆1567年 美濃平定
↓
翌年
↓
◆1568年 足利義昭を奉じて上洛
しかしこの間に「ショボい城しかない」という自らの弱点を克服し、家臣の反対を押し切って築城を進めた信長の軍事イノベーションは特筆に値すると思います。
戦国武将として十分な資格を得た信長は、先制攻撃主体の戦略に調略戦を織り交ぜるという新たな戦略にも磨きをかけていきます。
それもこれもすべては小牧山城という鉄壁の城を得たからに他なりません。
信玄も領土拡大に乗り出し、安穏とはしてられない
今後も信長を取り巻く【尾張国外の情勢】は、ますます混沌としていきます。
信長レベルの武将にも上洛要請が来るほど足利幕府はジリ貧となり、そして足利義輝が暗殺。
同じ頃、第五次川中島の戦いが終わり、いよいよ【いぶし銀】の武田信玄が甲斐、信濃を超えて領土拡大を始めます。
この頃から信長は、武田信玄と上杉謙信の両雄に誼みを通じ始めますが、このような国外の情勢と無関係ではいられませんでした。
そこで信長は思います。
「美濃まで取れれば上洛できるな。浅井と仲いいし、カネもある。しかし、信濃方面から信玄坊主が出てきたら厄介すぎる。うーん。小牧山城じゃ、ちょっともたない」
「殿!新車が必要かと!」
「デアルカ!!」
こうして信長はまた新たな領土拡大(領土防衛)への戦いへと邁進していくのです。
あわせて読みたい関連記事
-

秀吉vs家康の総力戦となった「小牧・長久手の戦い」複雑な戦況をスッキリ解説
続きを見る
-

桶狭間の戦い|なぜ信長は勝てたのか『信長公記』の流れを振り返る
続きを見る
-

斎藤道三の生涯|二代に渡る下剋上で国盗りを果たした美濃のマムシ63年の軌跡
続きを見る
-

道三の娘で信長の妻・帰蝶(濃姫)の生涯|本能寺の変後はどう過ごした?
続きを見る
-

斎藤義龍の生涯|父の道三に負けず劣らず 信長の攻撃を退け続けた実力とは
続きを見る






