森可成

森可成像(落合芳幾作)/wikipediaより引用

織田家

信長お気に入りの森可成~蘭丸や長可の父は浅井朝倉の大軍を寡兵で迎え撃つ

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浅井の裏切りで窮地に陥る織田軍

可成もまた信頼に応え、織田家中及び尾張統一に伴う戦いを通じてよく仕えました。

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織田家に入って10年ほどで城を任されていますし、その働きには信長も満足していたようです。

この間に信長の爺やこと平手政秀が自刃してしまっていますので、年上かつ有能である可成のような家臣の存在は頼もしかったことでしょう。

平手政秀
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しかし……。

浅井長政が織田家を裏切って泥沼の抗争劇を始まったがために、森可成の命運が尽きてしまいます。

元亀元年(1570年)8月、【野田城・福島城の戦い】の戦いで織田家が本願寺勢に釘付けにされているタイミングで、浅井朝倉軍が挙兵したのです。

浅井長政
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野田城・福島城の戦い(第一次石山合戦)~超わかる信長公記73話

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宇佐山城の戦いにて戦死

近江越前から南下してくる敵の浅井朝倉連合軍。

彼らの進路を塞いでいたのが可成の居城・宇佐山城でした。

同戦線の最前線に立たされた森可成は、わずか1,000程度の兵で2万規模の浅井朝倉軍と衝突します。

当初は鬼の踏ん張りで大軍を撃退しました。

が、石山本願寺を通じて延暦寺が浅井方につくと、奮戦空しく討死してしまったのでした。

宇佐山城の戦い】とも呼ばれ、より詳しい記事が以下にございますので、よろしければご参照ください。

志賀の陣&宇佐山城の戦いで信長大ピンチ!超わかる信長公記74話

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なお、この戦いから約1年後の元亀2年(1571年)9月。

織田軍は明智光秀を司令官として【比叡山焼き討ち】を強行します。

この焼き討ちは、焼失したとされる建造物の残骸や人骨が出土せず、従来想定されていたほど被害は大きくない可能性が高いですが、それでも信長が厳しい態度で臨んだのは、可成のような有能な家臣の敵討ちという意味もあったのかもしれません。

比叡山焼き討ち
信長の比叡山焼き討ち事件~数千人もの老若男女を虐殺大炎上させたのは盛り過ぎ?

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長島一向一揆でも大事な身内の者たちを数多く亡くしておりますしね。

そういう方面から見てみると、やっぱり信長って良くも悪くも情が濃い人だったんじゃないかなあという気がしてきます。


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長月 七紀・記

【参考】
太田牛一/中川太古『現代語訳 信長公記 (新人物文庫)』(→amazon
谷口克広『織田信長合戦全録―桶狭間から本能寺まで (中公新書)』(→amazon
谷口克広『織田信長家臣人名辞典』(→amazon
峰岸純夫/片桐昭彦『戦国武将合戦事典』(→amazon

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