波多野秀治

波多野秀治/wikipediaより引用

戦国諸家

一度は光秀を撃退するも最期は磔にされた波多野秀治~丹波武将の意地

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【丹波の赤鬼】として恐れられていた赤井直正ほどの人物を追い込んでいく光秀の手法。

あまりに鮮やかな進軍が目の前で行われ、織田家に対する警戒心が一気に増大したのです。

信長に従って日が浅かった秀治は、その苛烈さや家臣の見限り方を踏まえ、自分がいつ直正のように攻め滅ぼされるかもしれない、という恐怖を感じたとしても不思議ではありません。

この時期の秀治は、最新参といっても過言ではないほどの外様大名であり、主従の結びつきはほとんどありませんでした。

しかも、上記二つの仮説は、両立します。

内応の誘いを受けていた波多野秀治が、反信長という決断には至らないまでも、戦の展開を見て恐怖を感じた結果、裏切りに走った――という複合説です。

個人的にはこれを推したいところです。

もっとも、この可能性を裏付けるような史料は全く残されていないので、あくまで妄想の域を出ないのは残念ですが。

 

裏切りの代償はあまりにも重かった…

ひとまず明智軍を駆逐した秀治。

光秀は他地域も攻略しつつ、丹波でも一歩ずつ確実に波多野氏の支城を落としていきました。

天正7年(1579年)になると、丹波に腰を据えて波多野・赤井討伐を本格化させ、両氏はたちまち危機的状況に陥ります。

その前年には、赤井氏の棟梁として名を馳せていた直正が病死。

彼らは積極的な軍事行動に出られなくなっていました。

光秀は、波多野氏攻略を優先します。

波多野氏の本拠である八上城は三里四方を明智軍に囲まれ、堀や柵による厳重な設備を建設された結果、獣一匹通れぬほどの包囲を受けるのでした。

八上城本丸部分/photo by MassAve975 wikipediaより引用

やむを得ず籠城戦を強いられた秀治サイドの事態は深刻でした。

場内では餓死者が続出。

それでもあくまで徹底抗戦を主張した秀治は、ひそかに城の脱出を試みる者を切り捨て、降伏勧告にも応じない強固な姿勢を崩しません。

秀治も、ただ黙って光秀の猛攻を耐え忍んでいたわけではありません。

彼が丹波攻略を本格化させた天正7年(1579年)、秀治は兵庫屋惣兵衛という商人に対して徳政を免除しています。

食料を含む物資不足対策として商人との関係強化を図ったのでしょう。

しかし、戦国史研究家の谷口克広氏は「包囲の中で果して実効があったのであろうか」と、その効果を疑問視しております。

そんなご指摘の通り、波多野氏・八上城の苦境は全く改善できず、徳政免除のわずか三か月後には、前述の支城・氷上城が落城し、ここを守る一族の波多野宗長・宗貞親子は自害に追い込まれました。

 

最後まで玉砕の覚悟を固めていたが

それでもなお、頑強に抵抗をつづけた波多野秀治。

ついには諦めて降伏し、八上城も落城してしまいました。

八上城のある高城山/wikipediaより引用

なお、この際に光秀が自分の母を人質として和議を申し入れ、これに応じた波多野秀治・波多野秀尚兄弟が城から姿を現したところを捕らえたという記載が史料にありますが、これについては全くの虚説に過ぎません。

実態は、餓死者の続出に耐えかねた家臣らの裏切りによってもたらされた落城であり、秀治自身は最後まで玉砕の覚悟を固めていたといいます。

ともかく光秀によって捕らえられた秀治は、裏切りの見せしめとして市中引き回しの後、安土に送られ天正7年(1579年)6月8日、磔に処される――という酷い最期を迎えました。

同時に弟も処刑されたことにより、波多野氏は滅亡。

兄弟共に生年不明のため、享年もわかりません。

まもなく赤井氏も光秀によって攻め滅ぼされ、織田家による丹波平定はここに達成されます。

先ほどは裏切りの動機を検討してみましたが、正直、ここまで強固に徹底抗戦を主張したことには違和感を覚えます。

赤井氏への義理立てだとしても。

信長への恐怖だとしても。

彼がなぜ、これほどの決意をもって信長に対峙したのか、納得しきれないのです。

異常なほど情に厚いか、はたまた強情な性格をしていたか……。

いずれにせよその決断によって波多野氏が滅んでしまったという事実は残ってしまいました。

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文:とーじん

【参考文献】
『国史大辞典』
谷口克広『織田信長家臣人名大辞典(吉川弘文館)』(→amazon
谷口克広『信長と消えた家臣たち(中央公論新社)』(→amazon
和田裕弘『織田信長の家臣団―派閥と人間関係(中央公論新社)』(→amazon
太田牛一/中川太古『現代語訳 信長公記 (新人物文庫)』(→amazon

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