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【大宝寺義氏】
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「俺も悪屋方が嫌いだった」
尾浦城の義氏は見方の軍勢が押し寄せてきました。
本能寺のように「是非には及ばず」ではなく「なんてこった、無念だ」と繰り返し、城に入るしかありません。
このとき城にいたのは、およそ三百人。
ところがこの味方すらあっという間に半分以上消えてしまいました。
討たれたわけではありません。謀叛の軍勢を見て「俺も悪屋方が嫌いだった」と次から次へと寝返ってしまったのです。
義氏、どんだけ人望……(以下略)。
戦闘は午前十時頃から、夜中まで続きました。
偶然、城にいあわせてしまった鮭延秀綱は、義氏が切腹するならばお供しようと奮戦し、負傷しながらも敵の首をいくつかあげます。
しかし多勢に無勢。
義氏に味方する者は15〜16人ほどになり、義氏は城にある高舘山の八幡堂で、最期の酒盛りをしていました。
既に義氏は、8歳と9歳になる息子を斬殺していました。
秀綱はこう言います。
「奥羽で鬼神のようだといわれた御屋方様が、なぜ御自害することになってしまったのでしょうか。敵は我々が防ぎますから、腹を召されよ。我々も討たれなければお供します」
そう言うと僅かな味方とともに、秀綱は本丸に引き返したのでした。
秀綱は許され、城主として鮭延へ
味方同士で討たないよう、暗闇で名乗り合いながら斬り進んでいると、秀綱はなんと誰かから抱きつかれてしまいます。
驚いていると、相手は幼い秀綱を我が子のように育ててくれた中村内記という男ではないですか。
彼はここ数日、秀綱を捜し回っていたそうですが、おそらく事前に謀叛のことを知っていて、巻き込まないようにしたかったのでしょう。
内記は弟と二人がかりで秀綱を救出します。
秀綱は脱出を果たしたものの、義氏は切腹することとなりました。
鬼神のようだとも評され、悪屋方ともささやかれた大宝寺義氏。
享年33でした。
一方、危機一髪を切り抜けた秀綱ですが、前森蔵人ら謀叛を起こした者たちは、彼は巻き込まれただけ、むしろ悪屋方にお供しようとは見事な心映えであると賞賛します。
秀綱は許され、城主として鮭延に戻りました。
大宝寺義氏は討たれ、庄内の者たちも最上派になる中、秀綱も最上家に従属します。
その後は庄内方面の攻略、外交を担当し、家中屈指の名将として名を馳せ、最上家改易後も84歳まで生き永らえるのです。
大宝寺家は家臣が謀叛を起こしても元家臣たちは誰も特に異議を唱えず、大宝寺を支配下においていた上杉家だけが反発。
最上義光と前森蔵人にとって、想定外なのは上杉の動向でした。
義氏自刃の前年、【本能寺の変】で織田信長が横死したため、上杉家は窮地を脱し、さらには豊臣政権下につくことで息を吹き返していたのです。
大宝寺vs最上という対立構造は、豊臣政権下では上杉vs最上にかわり、【関ヶ原の戦い】の後まで続くこととなります。
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結局、悪屋方は本当に悪人だったのか?
大宝寺義氏という人物は、本当に「悪屋方」だったのでしょうか。
「悪」には強いという意味もあるし、滅びた家であるからには敵からの記録しか残っていないし、内政にかまけなかっただけでそこまで悪人ではないのでは、という疑問も当然ながら生じると思います。
確かに軍記では彼の悪人エピソードは誇張されています。
戦国時代の下剋上意識が理解できない江戸期の軍記作者が、「このくらいの動機で謀叛とは酷い。こんな理由もあったのではないか?」と考えたようなエピソードです。
そういったものを差し引いて、鮭延秀綱の証言を洗い直してみると、大宝寺義氏の人柄がわかるかと思います。
秀綱は淡々と回想しており、人物に対しての好悪をあまり語り残していません。
そこをふまえて、彼の証言を振り返ってみたいと思います。
・前森蔵人が謀叛を宣言した時、誰一人反論せず「もっと早くてもよかった」とすら言われた
・日頃から家臣に当たりが強く、ともかく態度が最悪で、皆ストレスを貯めていた
・謀叛時、城に残っていた義氏配下三百名があっという間に半数以上寝返った
・秀綱が、義氏にかわって庄内を治めることになった東禅寺筑前守が抱いた感想「義氏と違ってちょっとは度量が広い方のようだ」
鮭延秀綱は、幼児期に大宝寺にさらわれるという最悪の経験をしています。
そのことをふまえると、彼の義氏評には悪意がこもっていてもおかしくはありません。
それを差し引いても、家臣が誰も謀叛に反対しない、城に残った味方があっという間に半数以上寝返ったのは、さすがに義氏の性格面に問題があったのではないか、と思わざるを得ません。
「悪屋方」という呼び名、「義氏繁盛、士民陣労」という歌からも、家臣領民の苦しみが感じられます。
軍記で誇張された悪事ではなく、元部下の赤裸々な証言はかえって胸に響きます。個人的には上司にしたくない戦国武将上位ランクインしそう、という感想です。
そんな義氏も現在に至るまで残したものがあります。
天正年間、出羽国西部を支配下においた義氏はこう宣言したのです。
「大宝寺の領土は、かつて地頭として任された大泉庄だけであった。しかし今はこんなに広くなっている。出羽西部はもはや我が庄の内、『庄内』と呼ぼう」
こうして現在に至るまで、庄内という地名は残りました。
本拠地であった尾浦城は大山城、大宝寺城は「鶴ヶ岡」に、 最上義光によって改称されましたが、「庄内」は残ったのです。
今ではすっかり藤沢周平作品の舞台として認識されている庄内地方ですが、こんなに広い地域をおさめた大宝寺義氏という国衆もいたことを忘れないで欲しいものです。
彼が無念の最期を遂げた高舘山(TOP画像参照)は、バードウォッチングやハイキングが楽しめる憩いの場として、市民から親しまれています(山形県鶴岡市観光連盟→link)。
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記:最上義光プロジェクト(→link)
最上義光の知名度アップを目指し、オンラインで情報発信を続けているサイトです。