絵・小久ヒロ

斎藤家

土岐頼芸83年の生涯をスッキリ解説! なぜ道三に美濃から追放された?

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大河ドラマ『麒麟がくる』で、地味に存在感を発揮しそうなのが土岐頼芸(ときよりあき)。

尾美としのりさんという渋めの俳優さんが演じることから、ド派手な立ち振る舞いはイメージしにくいけれど、ねちっこい政治&外交話にならば持ってこい――という印象です。

実際、この土岐頼芸さんは、ゴタゴタした政局に振り回された生涯を送っています。

「美濃のマムシ」こと斎藤道三に担がれ、そして梯子を外され。
気がつけば甲斐へと流れ着く。

土岐頼芸さんの生涯とはいかなるものだったのか?
その過去に目を向けてみましょう。

 

政情不安の美濃に生まれた土岐頼芸

土岐頼芸は文亀元年(1500年)、美濃国守護職にあった土岐政房の次男として誕生しました。

室町時代の守護は言うまでもなく高い身分。
平時であれば、頼芸も安寧とした生活を送れたところでしょう。

しかし、彼の生まれた時代は不幸にも【応仁の乱】で幕府の権威が失墜していた戦国時代です。

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さらに、美濃国といえば「下克上」の代名詞ともいえる斎藤道三が猛威を振るった地でもあり、勘のいい方なら頼芸の生涯がどのようなものになるか、既に想像がついているかもしれません。

そうです。
頼芸は土岐家のお家騒動や美濃の権力闘争まみれの生活を送るのです。

そもそも応仁の乱は、家族や親戚が敵味方ごちゃ混ぜになって戦うパターンが全国へ拡大したもの。
「裏切りと同盟があざなえる縄のごとし」で、乱そのものが非常にわかりにくい。

跡目争いは将軍家のみならず全国の守護家で頻発しており、土岐家も例外ではありませんでした。

 

道三の父ちゃん・松波庄五郎も台頭する

まず、彼が生まれた時期は、すでに美濃国内の権力闘争は収拾がつかない状態でした。

守護の土岐家は、明応4年(1495年)【舟田の乱】というお家騒動を巻き起こし、守護家の勢力が低下すると同時に、ドサクサに紛れて新興の家臣・長井家一族が台頭。
彼らに仕えていたのが斎藤道三の父である松波庄五郎です。

斎藤道三は、油売りから一代でのしあがった下剋上の代表とされます。
しかし、通説で伝わる道三の半生が、実はこの松波庄五郎の話だったのではないか?と指摘されていて、有力な見方となっております。

ともかく長井家と松波庄五郎(斎藤道三)の台頭がありました。

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次に、土岐氏の重臣として守護代を任されていた斎藤家にも注目。
ややこしいですが斎藤道三の家系とは違う斎藤家でして。こちらの斎藤家でも有力当主や嫡子が相次いで戦死し、長井家の台頭を許す結果になっているのでした。

こうした環境の下に生まれた頼芸は、まるで事態をさらにややこしくするためかのように守護の父に溺愛され、それが原因で長男の土岐頼武と対立していくようになるのです。

いつしか彼ら兄弟の確執は政争に利用されるようになり、頼芸は長井家当主であった長井長弘や松波庄五郎に支持されると、頼武もまた守護代である斎藤家を後ろ盾とするようになりました。

図式で表すとこんな感じですね。

兄:土岐頼武 with 斎藤家
vs
弟:土岐頼芸 with 長井&松波

こうして頼芸による権力獲得への旅が本格スタートするのですが、内部分裂が多すぎて処理しきれていない方も多いかもしれません。

書いている筆者でさえ「いったい何してんだ……」と感じます。

ただ、だからこそ斎藤道三の下克上が成功したとも言えるのですね。

 

暗殺で敵勢力を排除した!?

後継者争いと権力闘争がセットとなったことで兄弟の対立は深刻化。
ついに永正15年(1517年)に合戦が勃発します。

この戦いは土岐政房と斎藤家の有力者である斎藤利良の争いと目されていたようで、史料を見る限りは「土岐方の大敗」つまり頼芸を支持する政房側の敗北となったようです。

しかし、政房は諦めません。

かわいい頼芸に家督を継承させるべく、敗戦からわずか半年後に再び挙兵して、今度は政房方の勝利に終わったようです。
その証拠に斎藤利良は、土岐頼武を連れ、朝倉家の越前へと逃れています。

それでも、です。
この戦で土岐頼芸が後継者に確定!とならないのですからややこしい。

永正16年(1519年)、なんとまぁタイミング悪く土岐政房が亡くなってしまうのです。

史料に具体的な記述はありませんが、敵対していた土岐頼武方にとっては都合がよすぎるため、個人的には「暗殺に近い手段が取られたのでは?」と疑っています。

 

朝倉家のバックアップもあり無事に家督継承

そして守護の土岐政房が亡くなってからわずか3か月後。
斎藤利良と土岐頼武は越前から帰国し、今度は大きな争いもなくそのまま家督を継承したようです。

もともと継ぐ予定の嫡男でしたし、朝倉家のバックアップもありました。

一時的にせよ頼武が守護職にあったのは、彼名義での知行書などから確認できます。
彼が在職中は美濃にひと時の平和が訪れていたようで、彼を支持した斎藤利良も別格の立場にありました。

頼武の治世によって、一応の決着がついたお家騒動。

しかし、この間にも頼芸は虎視眈々と守護の座を狙っていたのです。

大永5年(1525年)、再び挙兵した頼芸は、斎藤利良を戦死させると共に、兄の土岐頼武を没落(または死亡)に追いやって守護の座を確保しました。

ちなみに、このときの背景には浅井家と朝倉家の事情もありました。

織田信長の時代の【浅井&朝倉】は盟友として知られますが、当時は朝倉家と六角家が手を組み、浅井亮政を美濃へと追いやっていたのです。

浅井家の小谷城と美濃の稲葉山城はかなり近く、現代の道路で約57km。

浅井亮政を保護した土岐頼芸は、朝倉を支持する土岐頼武を攻める理由として合戦を挑み、念願の守護職を手にしたわけです。

かくして、ようやく彼の時代が訪れる……とはなりませんでした。

 

甥・土岐頼純との対立は周辺諸国に飛び火する

ようやくつかみ取った守護職。
土岐頼芸は、とりあえず治世を安定させていたようです。

史料にはしばらく名前が見えないながら、享禄4年(1531年)に書かれた文書には、美濃国内が平和な状態にあったことが推測されます。
彼の政権運営は順調に推移していたのでしょう。

ただし、全てがうまく回っていたわけではなく、天文4年(1535年)には頼芸が本拠としていた枝広館えだひろやかたが長良川の氾濫に伴う大洪水で流されてしまいます。

岐阜城天守閣から眺めた長良川・鵜飼い大橋(現在の岐阜県岐阜市)

京都に伝わった噂によれば、この水害によって実に2万人余りが死亡。
災害被害はオーバーに伝えられがちですが、当時の治水能力を考えれば、大災害であったことは間違いないでしょう。

さらに、同年から美濃に、再び戦火の影が確認できるようになります。

守護の座を追われていた土岐頼武――その甥・土岐頼純が美濃に復帰したのです。

詳細は不明ながら、当時、近江に逃れていた土岐頼純が、朝倉と六角の勢力を背景にして美濃へ攻め込んだのでしょう。
戦そのものは大事には至りませんでしたが、翌天文5年(1536年)には、【土岐頼純・斎藤氏・長井氏】らの勢力と、斎藤道三の間で戦が勃発しています。

本当にややこしいですね……。

当時、斎藤道三は土岐頼芸を支持しており、敵対する土岐頼純一派が仕掛けたのでしょう。

このときは、道三も、嫡男の斎藤義龍を国外に避難させるなどの苦戦を強いられましたが、最終的に、土岐頼純を美濃・大桑城の城主として承認することで講和となり、平和を取り戻しています。

戦国時代はこうした細かい戦いの繰り返しですね。
そのうちのいくつかが、【桶狭間の戦い】とか【長篠の戦い】など、ド派手な合戦へ発展していく。

それがよくわかる展開ですね。

 

稲葉山城にて二頭体制が均衡していたが

館が流された土岐頼芸は、一時、道三の稲葉山城へ身を寄せていた可能性が指摘されています。

また、停戦のタイミングで頼芸は【出家】して、天文8年(1539年)には還俗し政務に復帰しました。

美濃国の講和は実に不安定なものではありましたが、それでも
・土岐頼芸&斎藤道三
・土岐頼純
という二頭体制で、仮りそめの平和は保たれていたようです。

後に岐阜城として知られる斎藤氏の稲葉山城は難攻不落の名城だった/Wikipediaより引用

それが崩壊するのは、停戦から4年後の天文12年(1543年)のこと。
二頭体制を良ししない土岐頼芸と斎藤道三が大桑城を襲撃するのです。

「数万の死者が出た」という(かなり数字の盛られた)大戦の末、土岐頼純とその母子は大桑から敗走し、尾張国の織田信秀を頼ります。

さらには、かねてから友好的な関係を築いていた朝倉家にも出兵を要請。
土岐頼純は、織田家と朝倉家という二枚の後ろ盾を得ることになるのです。

一方、土岐頼芸サイドも、危機を察知した道三の手によって浅井家・六角家の支援を取り付け、またもや美濃だけではなく周辺諸国を巻き込んだ戦の機運が高まっていきます。

このような情勢下で、頼芸は、自身の立場が危ういものとなっていくのです。

 

道三相手では連合軍でも攻略が難しい

頼純を支持する織田・朝倉の軍勢は、天文13年(1544年)、美濃への侵攻を開始しました。

「敵から戦利品を分捕りできるかもしれない、美濃の領地を奪えるかもしれない」

そんな欲もあいまって織田朝倉軍の勢いは当初優勢でしたが、軍勢の大半を占める織田軍は統率面がいま一つで、朝倉軍も遠路からの進軍で疲弊していたことが推測できます。
軍略家としても有能であった道三という難敵に阻まれ、美濃侵攻は一筋縄ではいきません。そして……。
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