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宇治川に橋
常見検校とその一味が信長に献上した黄金200枚。
彼らにはおそらく買収の意図があったのでしょうが、そこは信長、連中の思い通りにはなりません。
これを元手に、宇治川に橋をかけ、平等院への通行を便利にしたのです。
架橋の実務を担当する松井友閑と山口秀景に対しては
「後々までのためになるものなので、堅牢に作るように」
と命じていたそうです。
この件に関して京の人々の反応は記載されていませんが、悪人からのお金で公共事業をやったわけですから、悪く思う人は少なかったでしょう。
山口秀景は元々、公家の葉室家に仕えていた人です。
いつの頃からか足利義昭の家臣となり、義昭が京都を追放されてから織田家へ移ったと考えられています。
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法華宗からも黄金200枚
また、本連載181話の安土宗論で敗北した法華宗から、
「寛大なご処置に感謝します」
との名目で、やはり黄金200枚が献上されていました。
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信長は
「このような経緯で手元に来た金を、そのまま置いておくのも気味が悪い」
と思い、伊丹・大阪・播磨などで長期間対陣している諸将へ配りました。現代でいえば慰労金でしょうかね。
5・10・20・30枚に分けて配ったそうなので、身分に応じて枚数を決めたと思われます。
また、9月16日には青地与右衛門を使者とし、滝川一益・丹羽長秀にそれぞれ馬を下賜しました。
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この二人もかなりの長期間に渡って有岡城包囲に加わっていたため、特別に慰労する意味があったのでしょう。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
太田 牛一・中川 太古『現代語訳 信長公記 (新人物文庫)』(→amazon)
日本史史料研究会編『信長研究の最前線 (歴史新書y 49)』(→amazon)
谷口克広『織田信長合戦全録―桶狭間から本能寺まで (中公新書)』(→amazon)
谷口克広『信長と消えた家臣たち』(→amazon)
谷口克広『織田信長家臣人名辞典』(→amazon)
峰岸 純夫・片桐 昭彦『戦国武将合戦事典』(→amazon)