武田・上杉家

第五次川中島の戦いは地味じゃない! 関東や越中をも巻き込む大戦構想だった

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第五次川中島の戦い
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武田信玄『グンマーのやぼう』西上野に侵攻する

永禄3年から4年にかけては大きな出来事(今川義元の戦死・上杉謙信の関東管領就任)が続きました。

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そして、実はもう一つ戦国ビッグニュースが飛び込んできました。

西上野の名主にして戦上手、反北条の旗頭であり、武田の誘いもすべて拒否してきた箕輪城主の長野業正(ながのなりまさ)が病死したのです。

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長野業正はもともと上杉憲政の被官。

憲政が越後に逃亡後も名城・箕輪城に留まり、北条方の侵攻をすべて退けていました。

また、北信濃を追放されて、六文銭どころか一文無しの若き日の真田幸綱を養ったり、この地域のまさに親分的立場の武将です。

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前年に上杉謙信が関東管領に就任した時は一早く謙信の味方になり、反北条のためなら新参者でも手を組むというしたたかな一面もありました。

その長野業正が病死してしまったのです。

息子の長野業盛はそこまでの器量を発揮する前に長野家と箕輪城を継いでしまいました。

西上野への侵攻ルートは複数ありますが、確実な勝利が見込める国峰城がある南方から侵攻します

西上野への侵攻ルートは複数ありますが、確実な勝利が見込める国峰城がある南方から侵攻します/©2015Google,ZENRIN

 

躊躇することなく信玄は出兵 上野の侵攻を始める

箕輪城は越後から関東地方への入り口を押さえ、信濃の武田領から上野の国への入り口も押さえる交通の要衝に位置します。

榛名山の丘陵を城郭に取り込んだ山城で、幾度となく攻められてもすべて跳ね返してきた上野国を代表する堅城でもありました。

長野業正の死はしばらく伏せられていたと言われています。

川中島の戦いの前には死去していたようですが、信玄の情報網に引っかかったのは、どうやら川中島の戦い直後のようでした。

武田家は川中島の激戦で多数の家臣が戦死してしまいましたが、突如現れたこのボーナスステージを前にして乗らない手はありません。

ためらいもなく上野侵攻を開始します。

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最終目標である箕輪城に向かって順番に城を落としていきます。実に堅実でいやらしい戦略ですね笑/©2015Google,ZENRIN

第4回川中島の戦いの約2ヶ月後には武田信玄は信濃-上野国境の峠を越えて「国峰城(くにみねじょう)」を攻略します。

国峰城は3年くらい前に親族争いの末に故・長野業正派によって国許を追い出された小幡憲重・信貞の居城です。

小幡父子を甲府で庇護していた信玄は、彼らの復帰という国峰城攻撃に十分過ぎる大義名分を大いに活用しました。

しかも国峰城を乗っ取った方(小幡氏の親戚)には長野業正という後詰の将はもういません。小幡父子の勝手知ったる国峰城を落とすのは造作もなく、あっさりと国峰城を奪還することに成功します。

この小幡父子は『甲陽軍鑑』を書いた小幡氏とは別系統の小幡氏で、後年、【長篠の戦い】では騎馬突撃の末、戦死しております。

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国峰城周辺の西上野は古代から馬の産地であり、小幡氏の騎馬軍団は武田家中でも最大でした。

信玄としてはこの名馬の産地を手に入れる意図もあったことでしょう。

 

ドラクエ以外にもいた 武装した商人たち

国峰城から上野に侵攻した武田信玄はこの後、国峰城方面と安中方面を河川で結ぶ交通の要衝、倉賀野城(くらがのじょう)の攻城に取り掛かります。

この倉賀野という地域ですが、武田方、北条方、上杉方の領地が交わる地域で、河川が縦横に走る上野の地でも商業が盛んな場所として知られています。

トラックのない時代、このような内陸部の都市の物流は河川を利用した船による運搬が重要。

ゆえに、この地の土豪は商人でありながら武士でもあるというちょっと変わった経歴を持った人たちで構成されています。

武装した商人なんてドラクエくらいでしか見ませんでしたが、実際に日本にもいたんですね。

倉賀野という地はそのくらい商業が発達した町でありながら、商人が武装しなければならないほどの紛争地帯であったということが読み取れます。

この倉賀野城の落城には数年を要しますが、その前に和田城が武田方に内応します。

和田城は高崎城の前身。城主・和田業繁(わだなりしげ)はいち早く信玄に内応を約束。

この地を押さえることによって上杉謙信の関東進軍をいやらしく邪魔ができるようになります。ちなみにこの和田業繁も長篠の戦いで戦死しています。

西上野は後年、徳川家康の関東国替えのときに井伊直政の領地となりました。

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当初は箕輪城を居城としていたようですが、田舎過ぎて……おっと、山間の城で不便極まりないということでこの和田城を改修し、高崎城を築城してここに移ったのです。

このときに長野業正の子孫が井伊家に仕官して彦根に移っていったと言われています。

なお、現在の和田城の「被害」状況ですが、高崎市の永遠のライバル前橋市の厩橋城と同様に、一切遺構が残っていません。

でもいいんです。悠久の年月を経ても変わらない利根川の流……もう破壊はやめて!私の妄想も限界よ!ていうか高崎に利根川流れてないし!

取り乱してすみません。先へ進みましょう。

 

北条家への義理を果たしつつ上杉家とは寸止め

武田信玄にとって、そもそも関東地方は北条家に任せるという認識は同盟時からありました。

しかし、上杉謙信という強敵の出現に加え、未だに関東各地で反抗勢力を駆逐できない北条家にとっては武田の力を少しでも借りたく、信玄の西上野侵入は黙認せざるを得ません。

じゃあ信玄は関東に野望を持っていたのか?

というとそうでもありません。

今後の南下政策(駿河侵攻)を考えると北方での上杉謙信との全面戦争は避けたいところですし、北条家との同盟はまだ利用価値が十分にあります。

北条家への義理を果たしつつ、上杉家とは寸止めというギリギリの綱渡りが上野国における武田家の戦略となります。

その落としどころが、おそらく利根川であり、倉賀野城でした。

武田家は利根川の西側、また武蔵国との国境で進軍をストップさせます。

そして西上野を完全支配下するためには名主、長野氏と名城・箕輪城の攻略が不可欠となります。

 

調略戦はプロに任せよう 六文銭のアイツに

さて、西上野の支配に乗り出す武田信玄ですが、最終目標は西上野最大の箕輪城を陥落させることです。

経歴は親父ほどでもない息子・長野業盛であっても、さすがの箕輪城と張り巡らされた上野国人衆の支城ネットワークで、そう簡単には落ちません。

これはどこかでみたことのある状況ですね。

そうです。川中島の戦いが始まる前の北信濃の状況とそっくりです。

武田信玄は今回も西上野の国人衆同士のもめ事や親戚同士の争いに「積極的に」介入していきます。

そして親戚同士の骨肉の争いに関しては俄然実力を発揮する六文銭のあの男を活用しない手はありません。

そうです。真田幸隆がまたしても登場します。

長野業正に養ってもらった恩義など忘れたかのように、いや、もしかしたらその経歴すらも美談にすり替えたかのように西上野の諸城と国人衆を次々と落としていきます。

後年、秀吉の北条攻めの原因にもなった名胡桃城(なぐるみじょう)など、西上野の地に真田家が進出する元となった調略戦が展開されますが、これはもうちょっと先のお話。

北条氏を滅亡に追い込んだ名胡桃城事件~関東の小城が戦国史を動かした

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1564年時の西上野。箕輪城が風前の灯火なのが分かります。ちなみに謙信の厩橋城が近そうですが、間には利根川があり、大軍の渡河は容易ではありません/©2015Google,ZENRIN

 

その頃の北信濃、善光寺平はどうなっていたでしょう

さて、川中島では海津城を中心に着々と武田領化が進んでいました。

北信濃に残る上杉方の城はもう川中島地方じゃねえ、で有名な飯山城と野尻湖周辺の城、そして善光寺周辺も上杉方ではありますが、既に経済的にも政治的にも松代方面の武田家の影響力が大きくなってきています。

上杉方とはいえ善光寺の町も武田家とうまく商売していかないと繁盛しませんからね。

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真冬の善光寺。このように寂しい雰囲気にならないためにも善光寺平大半を占める武田領との良好な関係は不可欠です

上杉謙信は、前述の通り、武田家の西上野への侵入を許し、越後の北から南まで、信玄にちょっかいを出されて黙って引き下がる男ではありません。

今回も信玄に手痛い一撃を与えるために動きます。

その点では上杉謙信の戦略も首尾一貫。武田家に手痛い一撃を与えて、上杉方への攻撃の代償が高くつくことを思い知らせることです。

謙信は武田家の攻撃にあたっては最も大軍を投入しやすく、手痛い一撃を与えられる場所を選びます。

関東管領という立場からすれば、西上野の地で信玄に手痛い一撃を与えたかったことでしょう。

しかしこれは利根川のような大河を大軍で渡河するリスクと、北条方の援軍も考慮すると最悪の二正面作戦になるおそれがあります。

また、上杉謙信自身も慣れない地ですので地の利がありません。

ということで西上野は却下です。越中方面から飛騨に入って西信濃を突くのも物理的に遠く、現実的ではありません。

そうなるとやはり今回も迅速な大軍の投入が可能な勝手知ったる川中島で手痛い一撃を与えるのが謙信にとってベストな選択となります。

謙信にとって、もう川中島を含む善光寺平は単なる戦場・バトルフィールド扱いです。

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