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【第五次川中島の戦い】
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坂東太郎の利根川岸に築城って自殺行為っしょ!
厩橋城は「箕輪城(みのわじょう)」の支城の一つとして、利根川の東側に寄り添うようにして築城された平城です。
坂東太郎の異名を持つ暴れ川「利根川」の岸に築城など自殺行為に近いのですが、おそらく水運の利権などを管理していたのでしょう。
この時代に利根川のような大河の岸に築城された城は、水運利権や「渡し」の管理が目的として設置されたものがほとんどです。
江戸時代には前橋藩の「前橋城」となり、気まぐれに氾濫する利根川に侵食され、破壊が凄まじかったと言われています。
それでも城の修繕は幕府に許されず、幕末に外国船が日本にやってくるようになり江戸城の備えが必要となって、ようやく城の修繕が認められるという苦労人な城でもありました。
しかし城マニアにとって悲惨なことに、利根川の相次ぐ氾濫と、幕末の修繕によって「厩橋城」時代の遺構はすっかり消滅。
現在も開発著しく、謙信時代の名残はさっぱりないという残念な状態になっています。
むろん、真の城マニアはそこでうろたえません。
悠久の年月を経ても変わらない利根川の流れを見るだけで、厩橋城を妄想できてこそ真の城マニアです……おっと、あっちの世界にイってしまいました。てか、川中島はどこへいったんだ!?
武田信玄 西上野に侵攻する
永禄3年から4年にかけては大きな出来事(今川義元の戦死・上杉謙信の関東管領就任)が続きました。
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そして、実はもう一つ戦国ビッグニュースが飛び込んできました。
西上野の名主にして戦上手、反北条の旗頭であり、武田の誘いもすべて拒否してきた箕輪城主の長野業正(ながのなりまさ)が病死したのです。
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長野業正はもともと上杉憲政の被官。
憲政が越後に逃亡後も名城・箕輪城に留まり、北条方の侵攻をすべて退けていました。
また、北信濃を追放されて、六文銭どころか一文無しの若き日の真田幸綱を養ったり、この地域のまさに親分的立場の武将です。
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前年に上杉謙信が関東管領に就任した時は一早く謙信の味方になり、反北条のためなら新参者でも手を組むというしたたかな一面もありました。
その長野業正が病死してしまったのです。
息子の長野業盛はそこまでの器量を発揮する前に長野家と箕輪城を継いでしまいました。
躊躇することなく信玄は出兵
箕輪城は越後から関東地方への入り口を押さえ、信濃の武田領から上野の国への入り口も押さえる交通の要衝に位置します。
榛名山の丘陵を城郭に取り込んだ山城で、幾度となく攻められてもすべて跳ね返してきた上野国を代表する堅城でもありました。
長野業正の死はしばらく伏せられていたと言われています。
川中島の戦いの前には死去していたようですが、信玄の情報網に引っかかったのは、どうやら川中島の戦い直後のようでした。
武田家は川中島の激戦で多数の家臣が戦死してしまいましたが、突如現れたこのボーナスステージを前にして乗らない手はありません。
ためらいもなく上野侵攻を開始します。
第4回川中島の戦いの約2ヶ月後には武田信玄は信濃-上野国境の峠を越えて「国峰城(くにみねじょう)」を攻略します。
国峰城は3年くらい前に親族争いの末に故・長野業正派によって国許を追い出された小幡憲重・信貞の居城です。
小幡父子を甲府で庇護していた信玄は、彼らの復帰という国峰城攻撃に十分過ぎる大義名分を大いに活用しました。
しかも国峰城を乗っ取った方(小幡氏の親戚)には長野業正という後詰の将はもういません。小幡父子の勝手知ったる国峰城を落とすのは造作もなく、あっさりと国峰城を奪還することに成功します。
この小幡父子は『甲陽軍鑑』を書いた小幡氏とは別系統の小幡氏で、後年の【長篠の戦い】では騎馬突撃の末、戦死しております。
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国峰城周辺の西上野は古代から馬の産地であり、小幡氏の騎馬軍団は武田家中でも最大でした。
信玄としてはこの名馬の産地を手に入れる意図もあったことでしょう。
武装した商人たち
国峰城から上野に侵攻した武田信玄はこの後、国峰城方面と安中方面を河川で結ぶ交通の要衝、倉賀野城(くらがのじょう)の攻城に取り掛かります。
この倉賀野という地域ですが、武田方、北条方、上杉方の領地が交わる地域で、河川が縦横に走る上野の地でも商業が盛んな場所として知られています。
トラックのない時代、このような内陸部の都市の物流は河川を利用した船による運搬が重要。
ゆえに、この地の土豪は商人でありながら武士でもあるというちょっと変わった経歴を持った人たちで構成されています。
武装した商人なんてドラクエくらいでしか見ませんでしたが、実際に日本にもいたんですね。
倉賀野という地はそのくらい商業が発達した町でありながら、商人が武装しなければならないほどの紛争地帯であったということが読み取れます。
この倉賀野城の落城には数年を要しますが、その前に和田城が武田方に内応します。
和田城は高崎城の前身。城主・和田業繁(わだなりしげ)はいち早く信玄に内応を約束。
この地を押さえることによって上杉謙信の関東進軍をいやらしく邪魔ができるようになります。ちなみにこの和田業繁も長篠の戦いで戦死しています。
西上野は後年、徳川家康の関東国替えのときに井伊直政の領地となりました。
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当初は箕輪城を居城としていたようですが、田舎過ぎて……おっと、山間の城で不便極まりないということでこの和田城を改修し、高崎城を築城してここに移ったのです。
このときに長野業正の子孫が井伊家に仕官して彦根に移っていったと言われています。
なお、現在の和田城の「被害」状況ですが、高崎市の永遠のライバル前橋市の厩橋城と同様に、一切遺構が残っていません。
でもいいんです。悠久の年月を経ても変わらない利根川の流……もう破壊はやめて!私の妄想も限界よ!ていうか高崎に利根川流れてないし!
取り乱してすみません。先へ進みましょう。
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