藤田信吉

関ヶ原古戦場

武田・上杉家

北条→武田→上杉→徳川を渡り歩いた藤田信吉が関ヶ原を引き起こす?

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家康との関係 アヤシイっちゃアヤシイ

藤田信吉さんからすると、没落した自分を取り立ててくれた上杉家を守るつもりでした。

しかし、上杉家からしてみれば、敵方に通じて讒言をした裏切り者でもあります。

そのため藤田信吉さんは【会津征伐】ひいては【関ヶ原の戦い】のキッカケを作った人物とも言われています。

関ヶ原古戦場

藤田信吉さんにとっては不名誉ながら、自分の母方の故郷出身武将が歴史を動かしたのかもしれん!と考えると、非常に興奮してしまいます。

疑惑の真相は不明ですが、関ヶ原の戦いの後のこと、藤田信吉さんは家康から下野の西方(栃木県栃木市)に1万5千石もの領地を与えられ、なんと大名に取り立てられています。

うーーーーん、家康との関係、アヤシイっちゃアヤシイですね……(笑)。

この一件が原因なのか。

『信長の野望 革新』にある義理の数値(高ければ高いほど裏切らない・MAX100)は「19」という低値となっています。

ちなみに、還俗して「重信」と改めた藤田信吉さんは、西方城の支城である二条城に館を構えて、西方藩の初代藩主に就任しています。

っていうか、二条城って栃木県にもあるんですね〜。

二条城の遠望

実は、二条城というお城は香川県にもあったりします。

また、京都の二条城も、家康が建てたもの以前に信長・秀吉が建てた二条城(二条にあった城館)が計5ヶ所あったりしました。

そのあたりの詳細は拙著『ヘンテコ城めぐり』(→amazon)をお読みくださいませ! さーせん、宣伝です(笑)!

 

「北条→武田→上杉→徳川」を渡り歩く

さて、藤田信吉さんの波乱の武将人生は、ついに終結を迎えます。

慶長19年(1614年)から翌年にかけて起きた【大坂の陣】に参戦。

榊原康勝(“徳川四天王”の榊原康政の三男・【大坂夏の陣】で破裂した痔が悪化して死亡したとも)の軍監を務めたものの、詳細は不明ながら、何かしらの“しくじり”があったということで、徳川家康から突然の改易を命じられてしまいます。

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そして、失意のままに迎えた元和2年(1616年)、奈良井宿(長野県塩尻市)の長泉寺で急死しました。

死因は不明ですが、苦悩の末に自害をしたとも言われています。

以上、武蔵の国衆の家に生まれ、戦乱を生き抜くため「北条→武田→上杉→徳川」を渡り歩き、天下分け目の【関ヶ原の戦い】遠因となったともされる“流転の武将”、藤田信吉さん58年の激動の武将人生でした。

お墓は、最期の地である長泉寺と、西方の実相寺に建立されています。

実相寺「藤田能登守」の墓

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文:れきしクン(長谷川ヨシテル)

◆れきしクンって?

元お笑い芸人。解散後は歴史タレント・作家として数々の番組やイベントで活躍している。
作家名は長谷川ヨシテルとして柏書房やベストセラーズから書籍を販売中。

【著書一覧】
『あの方を斬ったの…それがしです』(→amazon link
『ポンコツ武将列伝』(→amazon link
『ヘッポコ征夷大将軍』(→amazon link

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