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【藤田信吉】
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織田四天王に敗れ、今度は上杉へ
しかし、頼りの武田家は天正10年(1582年)、織田家による【甲州征伐】で滅亡。
上野(群馬県)には“織田四天王”の一人・滝川一益が派遣され、これに従属します。
ところが、同年6月2日に【本能寺の変】が勃発して、上野の勢力図もゴチャゴチャになるのです。
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織田信長の生前は織田家に従っていた北条氏直(北条氏政の跡を継いで当主)も、態度を一転して、滝川一益を攻撃。
【神流川の戦い】で滝川軍を撃破します。
この混乱に乗じて藤田信吉さんも、滝川一益に勝負を仕掛けて敗戦。
上野を追われてしまい、越後に落ち延びることとなります。
そして、春日山城を本拠地とする上杉景勝(上杉謙信の養子)の家臣となったのです。
個人的には、すでに十分すぎるほど面白いのですが、まだまだ波乱は続きますよ!
先鋒として出向いた先には兄の仇・氏邦が
ここで今さらの基本情報ですが……藤田信吉さんも殺された兄同様にデキる男です。
天正15年(1587年)に鎮圧された【新発田重家の乱】では、複数のお城を攻略するなど大大大活躍。
新発田重家の居城である「新発田城」は、以下【溝口秀勝】の回でもピックアップしておりますので、そちらもご参照くださいませ。
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この戦い以外だと、例えば【佐渡平定】などでも武功を挙げ、新参者ながら直江兼続らがいる上杉家お重臣ラインナップに名を連ねることとなりました。
天正18年(1590年)の【小田原征伐】では、なんと上杉家の先陣として関東に攻め込みます。
豊臣秀吉が小田原城の北条家を滅ぼし天下統一を達成したこの大合戦で、藤田信吉さんにある運命のイタズラが襲い掛かります。
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上野の諸城を攻略した上杉軍は武蔵に侵攻。
武蔵にある北条一族が城主を務める重要なお城を攻撃することとなったのですが……。
そのお城こそ、兄の仇である北条氏邦と、その正室の姉・大福御前が籠る鉢形城でした。もう!運命のバカっ!
信吉さんはそこでどうしたか?
荒川の断崖上に築かれた鉢形城は籠城戦を1ヶ月ほど繰り広げるも、援軍が見込めないこともあり北条氏邦は降伏をして開城。
正龍寺で剃髪した北条氏邦には、斬首や切腹など厳しい処置が取られると思われたものの、敵将の一人である前田利家に預けられ、命は取られることはありませんでした。
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この寛大な処置の背景に藤田信吉さんがいました。
遺恨は荒川の水に流したのか。
それとも姉に危害が及ぶのを避けるためか。
藤田信吉さんは北条氏邦夫婦の助命に奔走し、それを成し遂げたのです。その真意や如何に!?
ちなみに北条氏邦は、前田家の領地に移って金沢(石川県金沢市)で死去。
荼毘に付された後、遺骸は正龍寺に運ばれました。
姉の大福御前は鉢形に残り、散り散りになった夫や家臣や領民たちのことを想ってお祈りを続け、1,000日のお祈りが終わった日に自害したと言われています。
この正龍寺の東南には「大福御前自刃の地」が伝えられています。
大福御前のお墓もまた正龍寺にあり、生き別れとなった夫の北条氏邦と隣り合わせに建てられています。
上杉家から追い出された裏切り者だと!?
さてさて、私も書き疲れてきましたが、藤田信吉さんの話はまだ終わりませんよ(笑)。
慶長3年(1598年)のこと。
上杉景勝は秀吉の命令で会津若松城へ移ることとなり、藤田信吉さんもこれに従って、越後から会津の入り口に位置する津川城(新潟県阿賀町)の城主となります。
藤田信吉さんが戦国史に大きく登場するのは、この2年後、慶長5年(1600年)のことです。
年賀の挨拶をするため上杉景勝の代理として上洛した藤田信吉さん。
いや、新参だったのに、いつの間にか主君の代理に!スゴ過ぎ!
上洛した藤田信吉さんは、秀吉死後、政権の主導権を握っていた徳川家康と会見をします。
このとき徳川家康と主君の上杉景勝は、実はピリピリムード!
近隣の大名である堀秀治や最上義光などから「上杉景勝に謀反の気配が…?」という旨の報告が挙げられていたためです。
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藤田信吉は、主君・上杉景勝と、アンチ家康の参謀・直江兼続に、家康と友好関係を築くことを勧め、両者の間を取り持とうとしました。
しかし上杉主従はこれを却下。
ついには藤田信吉が裏切り者のレッテルを貼られて、上杉家から追放されてしまうのです。
会津から命からがら逃げ出した藤田信吉さんは江戸城の徳川秀忠に保護してもらった後、京都の大徳寺(境内の総見院には織田信長のお墓がある)で剃髪、謹慎をしました。
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そしてその後の情勢はご存知の通り。
徳川家康による【会津征伐(上杉征伐)】が勃発すると、その最中に石田三成らが挙兵。
家康率いる東軍は兵を取って返し、三成ら西軍との【関ヶ原の戦い】で勝利を収めるわけです。
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