三方ヶ原の戦い

徳川家 武田・上杉家

家康はなぜ信玄に戦いを挑んだ? 三方ヶ原の戦い 謎多き戦場を歩く

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いったい戦場はどこなのか? 高柳説に揺れる地元

この高柳説に驚かされたのは、三方原に住む郷土史家の方々でした。

彼らは

「祝田坂は、祝田村の人が三方原に上って柴刈をする道であり、行き止まり。当時は三方原追分と祝田坂を結ぶ“金指街道”は無かった」

と主張しました。

が、逆に

「三方原追分と祝田坂を結ぶ“鳳来寺道(半僧坊道、現・金指街道)”があったのだ」

と切り替えされ、高柳説は学説(通説)となるのです。

根洗松の南に建てられた「三方原古戦塲」碑(三方原墓園(浜松市北区根洗町)駐車場)

祝田坂への旧道。武田信玄本陣の「物見の松」(「根洗松」「祝田の一本松」とも)

祝田坂

日没が近いというのに、なぜ遠回りしたのか(三方原追分から祝田坂に向かったのか)?

私には理解できません。

一説に、武田信玄は、平口から休兵坂を上り、本陣を「都田山※2」に構えて昼食をとり、そこから都田へ抜けようとしたら、道が険しかったので、祝田坂を使ったとも言われております。

「信玄遂ニ浜松ノ城ヲ攻ズシテ、平口村ヲ歴テ、引佐部刑部ニ赴キ、爰ニ越年ス」(『武徳編年集成』)

ともかく三方原に住む郷土史家の方々は「古戦場が小豆餅だと思い込んで、徹底的に調査をしなかった自分たちの責任である。怠慢であった」と恥じて、三方原で徹底調査を行います。

そして、三方ヶ原の台地上を隈なく歩き回って見つけた痕跡の総数は、なんとなんと2つでした(三方ヶ原の戦いの痕跡は浜松城周辺に多く、これまで戦場での唯一の痕跡とされていた「千人塚」は前述の通り古墳と判明)。

2つとは、

「おんころ様」(武田信玄本陣・中川寺)

「精鎮塚(しょうちんづか)」(徳川家康本陣・本乗寺)

です。

武田信玄本陣「おんころ様」(中川寺)

徳川家康本陣「精鎮塚」(本乗寺)

この2つの痕跡は、今は2つの寺に移されていますが、以前は共に姫街道の三方原追分と刑部砦の間にありました。

ここから導き出された主戦場は「東大山一里塚」付近。

つまり武田信玄は、

三方原追分→戦場(東大山)→刑部砦

と姫街道を東から西へと進んだことになります。

今川義元の母であり、氏真の祖母である寿桂尼が初めて発給した文書は、大山寺宛のものです。

この大山寺があった浜松市西区大山町には、東大山と西大山があり、それぞれの山頂に本陣を構えて……という流れであれば絵的にもわかりやすいのですが、実際は、そのような本格的な戦いではなく、2時間足らずの「ヒット&アウェイ」だったようです。

あらためてマトメます。

いったい「三方ヶ原の戦い」の戦場はドコにあったのか?

①小豆餅付近説(旧陸軍参謀本部『日本戦史 三方原役』)

②祝田坂上説(高柳光壽『戦国戦記1 三方原之戦』)

③大谷東坂上説(鈴木千代松『三方原の戦いの研究』)

④都田丸山南説(岩井良平『三方原の戦と小幡赤武者隊』)

上記のように①~④の4説あり、当初は「小豆餅付近」が通説でしたが、後に「祝田坂上」へと変わりました。

ところが「武田信玄本陣の物見の松」とされてきた根洗松が枯れ、その年輪を調べたら「三方ヶ原の戦い」の時にはまだ生えていなかったことが分かってから「丸山の南」説も急浮上しており、真相はまだまだ定まっておりません。

この話題はここまでとしておき、次に家康が無謀な戦いへ挑んだ理由を考えてみましょう。

 


なぜ徳川家康は出陣したのか?

徳川の軍勢11,000に対し、武田は30,000。

ここで取るべき戦略の定石は「籠城戦」です。

にもかかわらず徳川家康はなぜ、無謀とも言える「野戦」を選択したのか?

浜松城天守(徳川家康の時代には無かったという)

主に以下の4説があります。

説①浜松城(徳川家康)を無視して素通りしたので怒った【これまでの通説】

説②祝田坂を下るところを上から攻撃すれば勝てると思った【高柳説】

説③家臣・織田信長・領民に見放されるのが怖かった【小和田説】

説④「印地打ち(いんじうち)」(石合戦)が始まってしまい、なし崩し的に出陣した【鈴木説】

一つずつ詳しく見てみましょう。

 


説①浜松城を無視されて

「我が国をふみきりて通るに、多勢なりというて、などか出てとがめざらん哉。とかく、合戦をせずしてはおくまじき。陣は多勢・無勢にはよるべからず。天道次第」(大久保彦左衛門『三河物語』)

少数で多数を負かせるとしたら奇襲か籠城戦。

二俣城を落とすのに2ヶ月もかかってしまった武田信玄は、浜松城を落とすにも日数がかかると考え、徳川家康を浜松城からおびき出す方法を考えました。

それが無視です。

武田信玄が、浜松城を素通りしようとすると、徳川家康は「合戦をせずしてはおくまじき」と怒りに任せて出陣しました。

若気の至り(当時家康は31歳)ですね。

徳川家康は「勝ち負けは天道次第」と時々言いました。

家臣にしてみれば「そりゃ策略次第でしょ!」という気持ちだったかもしれません。

あるいは織田信長が今川義元を討ち取った桶狭間の戦いを引き合いに出し、「小軍が大軍に勝ったのは、地の利にあり。此度の合戦、我等に地の利あり!」と思ったとかね。

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