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【三方ヶ原の戦い】
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オマケ①家康の身代わりになった夏目吉信
武田信玄は、時間がかかる籠城戦にならないよう、短期決戦の野戦になるよう、徳川家康をおびき出そうとします。
しかし「三方原合戦絵図」にあるように
「名残」周辺で戦うと、攻めたらすぐに城門「名残口」から浜松城へ戻られてしまいます。
出来るだけ浜松城から遠く、最低でも三方原追分――できれば祝田の一本松(根洗松)など、北端の丸山までおびきよせたいのです。
そして実際にそうなった。
上掲の『記念誌』に「家康も命からがら玄黙口から浜松城に逃げ帰った」とあるように、文字通り「命からがら」の長い長い敗走が始まりました。
このとき夏目吉信は浜松城の留守居役でした。
しかし、戦況不利と見ると出陣し、徳川家康と馬を替え、槍で馬の尻を打って徳川家康を浜松城に戻すと、自らは「我は徳川家康なり」と名乗って戦い、時間稼ぎをしたと伝わります。
なんでも三河一向一揆のとき家康の敵側に回ったのに、命を助けられた事への恩返しなのだそうです。
「元亀三年冬徳川家康武田信玄ト三方原ニ戦ヒテ大敗ス時ニ夏目次郎左衛門吉信浜松城ニ留守セシガ急ヲ聞き与力二十余騎ヲ率い馳せ到レバ家康既ニ死ヲ決セリ因リテ大イニ之ヲ諌メ馬首ヲ浜松城ニ向ハシメ畔柳助九郎武重ニ目シテ日ク汝速カニ主君ヲ護リ去レト乃チ槍ヲ揮ヒテ馬臀ヲ打ツ馬驚キ奔ル家康辛ウシテ城ニ入ル是ニ於テ吉信自ラ家康ト称シ敵陣ニ突進シ奮戦シテ主従共ニ死ス実ニ十二月二十二日申ノ下刻ナリ時ニ年五十有五従者其ノ屍ヲ収メテ城ニ還レバ家康深ク其ノ忠死ヲ悼ミ郷里三河国幡豆郡豊坂村六ツ栗明善寺ニ於テ厚ク葬ラシム」(「夏目次郎左衛門吉信旌忠碑」裏の碑文)
「夏目次郞左衞門吉信が討死するそのひまにからうじて濵松に歸りいらせ給ふ。(夏目、永祿のむかしは一向門徒に組し、御敵して生取となりしが、松平主殿助伊忠、「此もの終に御用に立べき者なり」と申上しに、其命たすけられしのみならず、其上に常々御懇にめしつかはれしかば、是日御恩にむくひんとて、君、敵中に引かへしたまふをみて、手に持たる鑓の柄をもて御馬の尻を たゝき立て、御馬を濵松の方へをしむけ、その身は敵中にむかひ討死せしとぞ。)(『東照宮御実記』)
オマケ②浜松城の玄黙(元目)口は引馬城の搦手
三方ヶ原の戦いについては、古文書の記述が一致せず、史実は不明です。
ただ、上掲の『記念誌』にもあるように、地元の伝承では名残から伊場を経て浜松城の南の榎門からの帰城で、学説は引馬城の搦手・玄黙口から帰城です。
このとき「乗っている馬も違うし、供回りの人数も少ないので、徳川家康だとは信じられず、門番が門を開けようとしなかった」というのは作り話っぽいですが。
「玄黙(元目)口」というのは、古城(引馬城)の搦手のことですから、徳川家康は、三方原の中央の半僧坊道を小豆餅→銭取と辿って名残口から帰城したのではなく、三方原の東の二俣街道(後の秋葉街道)を通って玄黙(元目)口から帰城したというのが史実らしいです。
とすると、敗走中の徳川家康が茶屋に立ち寄り、小豆餅(あずきもち)を食べていると、追手(武田軍)が迫ってきたので、代金を払わず逃げたので、老婆が追いかけ、餅代を徴収した場所が「銭取(ぜにとり)」だとする地名「小豆餅」「銭取」の由来は「作り話」となりますね。
もしも史実であるなら、家康ではなく別の人の逸話ということになりましょうか。
あるいは銭取から六間道路を下って二俣街道に入ったか。
小豆餅は三方ヶ原の戦いの戦場とされてきた場所で、高階晴久が、白馬に乗った亡霊に小豆餅を差し出された場、「三方ヶ原の戦い」での死者を弔うため小豆餅を供えた場というのが地名の由来です。
銭取は追い剥ぎの巣窟があり、通行人から銭を取っていた場というのが地名の由来とされます。
当時、小豆餅から銭取にかけては、茶屋どころか民家すら無かったとか。
オマケ③徳川の夜襲で混乱した武田軍が……
上掲の『記念誌』には「追撃した武田勢は犀ヶ崖付近に本陣を構えた。夜半には徳川勢の夜襲もあり、混乱した武田方には犀ヶ崖に落ちて死傷した者も多かったと伝えられる」とあります。
この地には「布橋」伝説が残されています。
夜襲された武田軍は、白い布で作った橋を本物の橋だと思い込んで渡ったので犀ヶ崖に落ちたというのです。
オマケ④浜松に雪はミニ氷河期なら?
「布橋」伝説を聞いた時に「いくら夜でも、白布と橋を見間違えることはない」と思ったのですが、当日は雪が降り積もっていたと聞いてそれなら「有り得るかな……」とも思いました。
現在の浜松は温暖で、雪は年に数回、積もるのは数年に1度です。
しかし、戦国時代はミニ氷河期でしたから、今よりも高い頻度で雪が降り積もったことでしょう。
安祥松平氏の白山信仰は有名で、岡崎城の西には新田白山神社(徳川家康の氏社・ちなみに産土社は岡崎六所神社)があります。
そして、白山信仰の「布橋灌頂会(ぬのはしかんじょうえ)」における布橋は、この世とあの世の境界とされています。
「犀ヶ崖」については『東海道名所図会』に「昔、犀といふ獣、こゝより出でて海に入るより、この名を呼ぶ」とありますが、犀は日本には生息していないので「さい」は「西」でしょう。
これは【ここが墓地でこの崖を越えればあの世(西方浄土)】ということかと思われます。
また賽の神(塞の神)が祀られていたので「賽(塞)ヶ崖」とも。
◆
以上【武田信玄の進軍ルートを辿る旅】は、史実と伝承・伝説が入り交じった旅でした。
何が史実で、何が作り話(伝承・伝説)なのか?
徳川家康は三方ヶ原の戦いで敗戦した苦渋の姿を描かせ、この肖像画『しかみ像』を生涯に渡り、
自分に対する戒めのために座右から離さなかったと伝えられ――と思ったら現在は「後世に描かれた作品である」可能性が高いようで、歴史が不変ではないことを痛感させられます。
家康のしかみ像は三方ヶ原と無関係?東大教授・本郷和人の歴史ニュース読み
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今後も探求していきたいものです。
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著&写真/戦国未来
【参考文献】
高柳光壽『三方原之戦』(→amazon)
小和田哲男『三方ヶ原の戦い―戦史ドキュメント (学研M文庫』(→amazon)
鈴木眞哉『戦国時代の大誤解 (PHP新書)』(→amazon)
※1「八幡大菩薩」が祀られていた「大菩薩山」は私有地で、現在は立ち入り禁止となっている。このため、「欠下城」碑は、山頂ではなく、山麓にある。
※2 武田信玄が本陣を構えたので「丸山」とも。松茸の産地で、奥山線の路線図には松茸がわんさか描かれている。
※3「山の際(きわ)」の「山」は丸山だという。「祝田坂を登り」ではなく、「祝田坂を下り」では?