こちらは2ページ目になります。
1ページ目から読む場合は
【上杉謙信】
をクリックお願いします。
お好きな項目に飛べる目次
お好きな項目に飛べる目次
最大のライバル・信玄とバトル勃発
関東へ進出することになった上杉謙信。
最初はほとんど成果もなく帰国しており、ほんの「顔見せ」程度だったのではないかと指摘されています。
それより問題がありました。
隣国・信濃です。
甲斐の虎こと武田信玄が急激に版図を広げており、越後を脅かす勢い。
かつて信濃で力を握っていた諏訪氏はすでに滅ぼされており、北信濃の村上義清と激戦を繰り広げます。
信玄に二度も勝った戦国武将・村上義清!謙信を川中島へ呼び寄せる
続きを見る
越後と国境を接する北信濃を陥落されると、国防上の観点からシャレにならず、信玄相手に粘りを見せていた村上勢が敗れると、いよいよ衝突は避けられない状況でした。
そこで朝廷から大義名分を得た謙信は、信濃への出兵を決意。
天文22年(1553年)、義清の救援要請に従うカタチで出陣すると、戦国屈指の合戦【川中島の戦い】が始まります。
第一次川中島の戦いは、上杉勢が武田勢の侵攻を食い止め、彼らの快進撃を阻止しました。
将軍を辞めた慶喜は明治以降何してた?せっせと子作り&趣味に興じるハッピー余生
続きを見る
不思議なのはその後のこと。
不安定な政情だった京都へ、わざわざ上洛しているのです。
「先年の贈り物に対するお礼」を名目として後奈良天皇に拝謁し、朝廷から厚遇されるのですが、自ら越後を離れるとはなかなか大胆ですよね。
しかし、よほど嬉しかったのでしょう。
「先祖代々これほどの幸せはなかった」と喜びをあらわにし、家格を向上させます。
同時に謙信は、本願寺や高野山、大徳寺などの宗教勢力を重視しており、仏教のルールである「三帰五戒」と、「宗心」という法号を授かりました。
なぜ、法号など名乗ったのか、その理由は不明です。
謙信が仏教を信仰していたことは確かですが、24歳で法号を名乗るのは若すぎる。この点を根拠に
「謙信は晴景の嫡男に家督を譲る予定の『中継ぎ君主』だった」
とする説もあるほどです。
「三帰五戒」の中には、戦国大名としては致命的な「殺生の禁止」もあり、謙信が何を考えていたのか、今なお議論の的になっています。
「もう上杉家の当主辞めるわ」
帰国後の上杉謙信は、弘治元年(1555年)、再び信濃へ侵攻してきた信玄を迎え撃つべく、兵を出します。
【第二次川中島の戦い】です。
前回の第一次と異なり、この戦いは長期戦となりました。
あまりに戦が膠着するため、さすがの謙信も信玄も家臣の士気低下に悩まされ、両者共に内心は諦めていたことでしょう。
そこで駿河の今川義元を頼み、講和が結ばれます。
なぜ今川義元は海道一の弓取りと呼ばれる?42歳で散った生涯とは
続きを見る
たった1つの山城(旭山城)が戦の趨勢を左右した 第二次川中島の戦いを振り返る
続きを見る
その直後の弘治2年(1556年)、謙信は予想だにしない行動に出ます。
突然「上杉家の当主辞める」と引退宣言を出し、越後を離れて、ひっそり隠居しようとしたのです。
特に健口を害したワケでもない20代半ばの戦国大名が、なぜこのような暴挙に出たのか。
謙信自身が語ったところによると、こうです。
「当主になってから国をまとめたり、幕府との交渉で家の格を上げようと頑張ったけど、家臣たちが争ってばっかりでやってられん!
上杉家には『優れた家臣』もいるから、別に自分がいなくても大丈夫だろ。
遠くから越後の様子を眺めてるから、後は頑張れや!」
かなりの超訳ですが、ともかくバラバラな家臣団に嫌気が差してしまったのでした。
実際、謙信は本当に家を出て、家中は混乱状態。
「殿さまが隠居するとか言い出したので、家中が機能不全になってしまいました」
なんて書状も残されるほどの有様となります。
謙信のこの態度には、彼なりの考えがあったと指摘されます。
最終的に、家臣の慰留によって引退を撤回するのですが、こうしたパフォーマンスで「謙信が必要だ」と痛感させたのではないかというワケですね。
なお、当主の座を投げ出した謙信を説得したのは、敵対してきた長尾政景であったとも言われます。
政景は説得に際し「戦から逃げるのですか!」と詰め寄り、当主復帰の決め手にもなったとか。
その話が本当なら、反抗しがちな政景を取り込めただけでも成功だったかもしれませんね。
名をふたたび「景虎」に戻した謙信は、武田氏との抗争を再開するのでした。
第三次川中島の戦いから二度目の上洛へ
弘治3年(1557年)、上杉謙信は信濃の更科八幡宮に「願文」という文書を出し、神への祈りをささげました。
その際、信玄を「佞臣(ねいしん・邪でずる賢い奴)」呼ばわりし、信濃を破壊して回る大悪党ゆえ正義のもとに征伐する!と宣言。
このあたりから謙信の一般的なイメージ「義」が打ち出されたりしますが、越後上杉家の滅亡により支配の正当性を失った謙信による演出ではないかとも指摘されます。
信玄の侵攻に危機感を強めた謙信は、雪中を進撃してその勢いに対抗。
「義戦」と称して上野原(現在の長野県長野市付近)にて【第三次川中島の戦い】が始まりました。
この戦いは詳細が不明であり、大規模な戦闘はなく、上杉軍の焼き討ちが主な内容だったのでは?とも言われたりします。
しかし、引退騒ぎでゴタゴタしていた謙信が「北信濃は譲らぬ!」という姿勢を打ち出し、信濃の国衆を従属させたことにより、押されっぱなしだった同エリアで足掛かりを築くキッカケになったという見解も。
第三次川中島の戦い「真田の調略」と「信玄の緻密」な戦術が凄まじい
続きを見る
13代将軍・足利義輝から「そろそろ信玄と講和してはどうか」という連絡を受け取ると、義輝の京都入り復帰に合わせて二度目の上洛を果たします。
この上洛は、実に大規模なものであったとされ、謙信は5,000人を超える兵を連れていったとされます。
ただし、京都市中に大軍が入ることは警戒され、その大半は近江の坂本へ残され、ごくわずかのお供を引き連れ入京しました。
謙信は将軍を補佐する【相伴衆】の地位や、数多の格式高い贈物を受け取り、家格の上昇だけでなく信濃国支配の正当性も手にします。真の狙いは、おそらくこの辺りでしょう。
しかも長い間、在京しており、京都で様々な活動を体験しています。
特に謙信は歌道に凝っていたので、歌会や宴会に参加しては大酒を飲んでいたとか。
こうした京での活動中に近づいてきた公卿が関白・近衛前久でした。
「京都はもうどうしようもないので、私を越後へ連れていってくれませんか」
前久も、余程のことだったのでしょう。
しかし、この話は幕府に露見したため最終的にご破算となり、「越後を失ってでも将軍に仕える!」と強い態度をもっていた謙信も帰国を余儀なくされました。
信長や謙信と親交の深かった戦国貴族・近衛前久~本能寺後に詠んだ南無阿弥陀仏とは
続きを見る
上杉謙信は、その帰路、河田長親という人物を連れ帰っています。
元々は近江六角氏の旧臣で、以後謙信・景勝父子を支える功臣となりました。
※続きは【次のページへ】をclick!