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【上杉謙信】
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関東を蹂躙していた上杉軍
永禄3年(1560年)、上杉謙信は再び越山を決意します。
北条氏の侵攻に苦しむ佐竹氏や里見氏、さらには上杉憲政らの要請を受けてのもの。
この一件もまた「義」の象徴として語られがちですが、出陣の主体はあくまで憲政自身であり、「苦しむ憲政を助けてやった」という構図は、必ずしも当てはまりません。
謙信は信玄の動向に気を払いつつ関東へ進出し、各地で暴れ回ります。
上野国から入り、まずは北条方の明間城・岩下城・沼田城に襲い掛かりました。
特に沼田城攻めは「城主の北条康元を含め数百人を討ち取った」と豪語するほどの大戦果(諸説あり)。
古河公方・足利義氏をして「越後の凶徒」と言わしめた謙信の猛攻を前に、関東たちの国衆たちも「こりゃタマラン」とばかりに次々に支配下へ下ります。
謙信は最後に明石城を落とすと、憲政の旧領だった上野国の回復も戻りました。
さらに南下した謙信は、ついに武蔵国へ侵入、関東の諸勢力はかなりの数が謙信方に味方します。
彼がどれだけ恐れられていたか、よくわかる展開ですね。
破竹の勢いの上杉軍は、やがて難攻不落の名城と称えられる小田原城を囲み、北条氏にプレッシャーをかけました。
この小田原城攻防戦をめぐり、軍記物などでは
「関東を蹂躙していた上杉軍が本気で城を落とそうと試みて、それを跳ね返したために小田原城は難攻不落の名城と呼ばれる」
という語られ方をします。
しかし実際は、武田軍と今川軍が北条氏の援軍に出る構えもあり、本格的な攻城戦は仕掛けずに包囲は解かれます。
もし謙信がフルパワーで小田原城を落としにかかっていたらどんな結果だったのか?
非常に気になるところですね。
なお、二度目の関東攻防戦では、北条方の3万ともいわれる大軍に包囲された【唐沢山城の戦い】も有名です。
当時は上杉方の佐野昌綱が城を守り、寡兵ながらしぶとい防衛戦を続け、落城寸前まで粘っていました。
この危機に全速力で越後から参上した謙信は、甲冑もつけず槍一本と40騎ばかりの部下だけを率いて敵陣に突撃。
「夜叉羅刹とはこのことか」と伝わる凄まじさで、北条方は誰も手出しができなかったと伝わります。
いくらなんでもこの話は創作でしょうが、それでも謙信が後世でどのようにとらえられていたかを示すエピソードとしては価値があるかもしれません。
話を戻しまして、小田原城を諦めた上杉軍は、鎌倉で鶴岡八幡宮を参詣し、憲政からは関東管領の職と上杉家の名跡を得ます。
名実ともに格式高い武将の一人となったのです。
もともと謙信は関東管領にこだわっていましたが、一方で動きを縛る足かせになったという見解もあります。
信玄と戦いながら関東にも手を伸ばすのですから、相当な負担でした。
苦境に追いやられていく謙信
越山に一区切りをつけて帰国した上杉謙信。
かねてから越後行きを希望していた近衛前久を、信玄との合戦に備えて古河城に入れます。
また、新たな古河公方に就任させた足利藤氏と上杉憲政も同城に入り、来るべき決戦に備えました。
そして永禄3年(1560年)5月19日。
信玄との戦いの中で最も激しい展開となった【第四次川中島の戦い】が始まります。
山本勘助が考案したとされる「啄木鳥戦法」だけでなく、「車懸りの陣」「鶴翼の陣」、あるいは謙信と信玄が直接刃を合わせた逸話などが有名ですが、いずれも『甲陽軍鑑』などの二次史料が出典とされます。
激しい戦闘があったこと自体は間違いありませんが、実は勝敗も定かではありません。
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第四次川中島の戦い後、謙信は再び関東へ目を向け、今度ばかりは苦戦を強いられました。
古河城で上杉憲政と近衛前久を引き取ったのですが、古河公方の藤氏は放置。
前久と藤氏との間で不仲があったともされ、越後帰国後に、前久は謙信の説得を無視して帰京してしまいます。
謙信は怒り、せっかくの二人の仲も決裂してしまいます。
その後、謙信は先の越山で落とした松山城を失うなど、関東攻略は上手くいきませんでした。
加えて永禄7年(1564年)には、謙信を引退の立場から呼び戻した長尾政景が亡くなってしまいます。
政景の最期は、船上で酒宴中、酔って水へ入った事故死という話がある一方、政景が謙信にそむいた過去から暗殺説も囁かれます。
しかし、当時の政景は服従を誓っており、謙信も厚く彼を信頼していたことから、事故死の可能性が高そうです。
同時期には【第五次川中島の戦い】も勃発しましたが、前回のように大きな激突はなく両軍は兵を引きました。
ただ、悪い事は重なるもので。
京都の足利義輝が【永禄の変】で殺害され、謙信もかなりのショックを受けたとされます。
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続いて、再びの越山では、かねてより包囲していた小田城を攻略するも、臼井城で手間取り、北条氏の援軍と城を管理する原氏の粘り強い抵抗によって兵を引かなければなりませんでした。
この失敗は手痛いもので、関東の親上杉派勢力が次々に北条氏へ鞍替え。
失意の底に落とされた謙信は、願文に「自分はキレやすくて失敗ばかりだ。もっと健気に生きたい」と書いてしまうほどです。
実際、謙信の「キレやすさ」には家臣達も困っていたようで、彼自身もそれを気にしていた節が伝わってきます。
踏んだり蹴ったり 滅亡を意識するほど
結局、何の手柄もなく関東から引き揚げなければならなかった上杉謙信。
永禄10年(1567年)には、これまでほとんど語られてこなかった武田信玄との戦いもあったとされ、翌年には上杉軍の主力部隊である揚北衆の一角・本庄繁長に謀反を起こされます。
まさに踏んだり蹴ったりと言うべきか。表向きは和睦に前向きな信玄も、裏では反謙信勢力を扇動して隙をうかがっていました。
このころの謙信は本気でピンチだったと言えるでしょう。
本庄繁長をどうにか降伏させますが、「滅亡」を意識しなければならないほど追い込まれています。
ところが、です。転機は思わぬところからやってきました。
武田氏と今川氏の同盟関係が崩れ、信玄が今川領へ侵攻したのです。
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この一件で【甲駿相三国同盟】が破綻すると、武田vs北条という展開が急浮上。
北条氏は、武田勢の裏切りに怒り、これまで敵対していた上杉氏との講和が、現実的な選択肢として浮かんできます。
しかし謙信は、信玄の侵攻に苦しむ北条を助けはせず、関東の国衆たちの意見も紛糾して、すぐに北条と上杉の同盟は成立しません。
それでも北条氏が謙信に譲歩する形で交渉は進められ、どうにか越後と相模の【越相同盟】が成立。
北条から上杉へ、人質という形で北条景虎が送られ、生涯妻をもたず、後継者のいなかった謙信の養子として将来を期待されます。
しかし、です。
この越相同盟は、すぐに破綻してしまうのです。
もともと謙信は、北条氏政をかなり毛嫌いしており「ウラオモテのある奴」呼ばわりしていました。
一方の北条も、謙信の援軍要請に応えず、信長や家康との関係を重視していたことも影響しいてたのでしょう。
結局、北条氏康が死んだ後の氏政は、武田氏との接近を選択し、謙信は
「こんな大バカ者と同盟を結び、同盟に反対していた関東の諸将を敵に回したことを後悔する」
と嘆いています。
とにかく謙信は氏政のことが嫌いだったようで…。
なお、同盟が手切れになっても、景虎が北条に送り返されることはありませんでした。
上杉一族として厚遇され、後継者の有力候補であり続けたのです。
信玄が西上したので織田・徳川に接近
北条氏政とすぐに決裂はしましたが、越相同盟により関東での争いに一旦区切りがついた上杉謙信は、北陸へ目を向けていました。
狙いは越中です。
しかし、父・長尾為景の代から根強かった越中の抵抗は、謙信の代になっても同じでした。
元亀3年(1572年)に加賀の一向一揆衆が挙兵すると、信玄の息がかかった椎名氏も呼応して謙信にプレッシャーをかけます。
単なる一揆勢と侮るなかれ――彼らは上杉軍の最前線部隊と互角に渡り合うどころか、神通川付近での戦では大勝を収めるのです。
謙信は、関東の戦況にも気を配らなければなりませんでした。
北条氏とは手切れになっていたので、警戒を怠ることはできなかったからです。
それでも越中を攻め落としたかった謙信は自ら参陣し、できるだけ大軍に偽装する工作や、鉄砲の脅威を避けるための夜間行軍など、工夫を凝らして一揆勢と対峙。
敵の指導者が入る富山城を落とし、以後、上杉軍が優勢になっていきます。
政治外交の状況が変化したことも、謙信に味方しました。
このころ都では、織田信長と足利義昭の対立によって【信長包囲網】が形成され、信玄が西上作戦を展開したのです。
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結果、信玄からの圧力が消え、信玄が敵対した織田・徳川の両勢力と上杉が接近。
さらに関東情勢に目を向けると、北条氏が佐竹氏に敗北していました。
これを見た謙信は「氏政は関東でも勝てないのにオレの相手するとか笑わせんなw」と煽り倒しています。
本当に氏政のことを嫌い過ぎてますね。
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