直江兼続

直江兼続/wikipediaより引用

武田・上杉家

戦国武将・直江兼続の真価は「義と愛」に非ず~史実に見る60年の生涯

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豊臣政権への接近と佐渡平定

織田信長が倒れ、息を吹き返した上杉家。

直江兼続石田三成と対面した時期は天正14年(1586年)辺りと考えられます。

それから2年後の天正16年(1588年)、景勝と兼続は主従で上洛しました。豊臣秀吉の九州平定を祝し、前年の新発田重家討伐も報告しております。

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景勝は後陽成天皇のもとに参内し、従三位の位階も賜りました。

かつて信長に対抗して窮地に陥った上杉家、その後継者である秀吉には接近することで対処したのです。

ターニングポイントでした。

九州の島津家、奥州の伊達家と比べると、かなりスムーズに接近しています。

天正17年(1589年)には、上杉家は佐渡島討伐を果たしました。

これも歴史的に見て、興味深いものです。

佐渡島を支配し、上杉家に討伐された本間氏の中には、庄内地方へと逃れたものもおりました。

その子孫が、東日本随一の商人となります。

庄内藩で、彼らはこう歌われたほどでした。

「本間様には及びもないが せめてなりたや殿様に」

【意訳】本間様みたいにリッチになるのは無理だけど、殿様レベルになれたらいいよね

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しかし、この佐渡平定を、納得できない思いで見る人物がおりました。

最上義光です。

このころ楊北衆の本庄繁長が、最上領だった庄内へ侵攻。

伊達政宗と大崎氏をめぐり争っていた最上義光は出兵すら思うようにできず、大敗を喫します。

大名が勝手に戦をしてはならない――と、当時、秀吉の命令で出された「惣無事令」。

実効性を疑う声は今なお多いものですが、少なくとも義光は停戦命令は有効だと考えていたようです。

現実は、そうではありませんでした。

上杉のルール違反。

それを許す豊臣政権のダブルスタンダード。

義光の中に不信感が募っていきます。

外交ルートを模索するものの、直江兼続(上杉家)と石田三成の強固な関係には割り込めないと諦め、義光は別口を当たるしかありません。

それが徳川家康でした。

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後の関ヶ原の戦いで、最上義光が東軍に真っ先についたのは、娘の駒姫を秀吉に殺されたから――そう説明されることは多いです(豊臣秀次事件)。

確かにそれは大きな要因でしょう。

しかし、義光は以前から、上杉家への不信感を機に徳川家康へ接近していたことも重要です。

関ヶ原へ向かう種は、この辺りから芽吹いていたのです。

 


兼続を考えるうえで気をつけたいところ

そしてここが、兼続を考える上で重要な点でもあります。

兼続の戦績などが、何か靄がかかったようにモヤモヤとしてしまうこと。これには東北戦国史の影響もあると思われます。

直江兼続の活躍を語る上で欠かせない最上義光が世間的にはあまりに地味な存在です。

江戸時代初期の『奥羽永慶軍記』等では、兼続の強敵として登場する最上家。

しかし、最上家が改易された事情等から出番が減っていき、現在のフィクションでは雑魚扱いが基本です。

前田慶次にやられてしまった『花の慶次』。最上家そのものが消滅していた『天地人』はその典型例でしょう。

そして最上家の代わりに引っ張り出されてくるのが、伊達政宗です。

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直江兼続と伊達政宗というと、いかにも見栄えのするラインナップかもしれません。

しかし、両者の関係は薄い。フィクションでは、それでも無理に争わせたりするものだから、結果的に、兼続の人生そのものが混乱する。

謙信時代の上杉家には、武田信玄という鉄板のライバルがいました。

そうでなくなった景勝時代以降、フィクションでは混沌としてしまう弊害が生じているのです。

兼続が主役ではなく、脇役だった『真田丸』。

景勝のそばで冷徹な意見を申し上げる姿は、鮮烈なキャラクターを視聴者の心に印象づけましたが、ウソで塗り固めない自然な描き方のほうが個性的になりました。

そうです。『直江状』も含めて兼続は、史実通りで十分に魅力的になれる。そこをキッチリと考えていきたい。

もう一点。兼続像をモヤモヤとさせる原因。

それが「義」です。

上杉家は「義」のために戦ったのか?

謙信は、他の大名と比べて慈悲深かったのか?

冷静に考えて、そうとはとても思えません。

持ち上げられがちな景勝と兼続主従の「義」とは、豊臣政権に尽くしたことがその根拠でしょう。

徳川ではなく、最後まで豊臣に従った――。いやいや、それは傾いた見方です。

上杉家が豊臣政権という権力を利用したとも言える。それが、どっぷり浸かりすぎていたため、途中から徳川家に乗り換えるチョイスなんてなかっただけ。

上杉家が、巨大なパワーに反抗的な気質を持っていたと認識するのは無理があります。佐渡平定にせよ、豊臣政権の下で勢力を拡張しておりました。

豊臣政権における「奥羽仕置」での上杉家の立場が、山形県内での景勝&兼続の評価を難している一面もあります。

最上と上杉に挟まれていた庄内地方では、太閤検地に逆らう一揆が頻発しました。

それを力で黙らせろ!とばかりに、上杉家はかなり強引な処罰を行い、庄内地方を疲弊させたのです。

その際、上杉家に反旗を翻した池田盛周(もりちか)は、最上家・鮭延秀綱の下へ逃亡。

「豊臣政権に逆らったからには悪だ」という意味を込め、悪次郎と名乗るようになりました。

そして開墾に尽くし、地元住民は彼の作った堰を「悪次郎堰」(現真室川町)と呼ぶようになります。

改名せよと命じられても、断り続けたというほどです。

こうして荒れ果てた庄内地方を豊かにしたのは、これまた最上家臣・北楯利長(きただて としなが)の功績です。

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庄内地方には、直江兼続を慕う理由はまったくありません。むしろ恨みの方が先に立つ。

山形県民に、

「山形を代表する戦国武将といえば、直江兼続ですね!」

と言っても、地域によっては反応が鈍い理由をご理解いただけたでしょう。

なお、庄内の一揆鎮圧や検地において、兼続と積極的に協力していたのは、大谷吉継でした。

このことも非常に重要です。

直江兼続(上杉家)と豊臣政権の中枢にいる石田三成・大谷吉継はそれだけ親しかったということになります。

 


兼続と三成と豊臣政権と

直江兼続の評価を難しくしている点――。

それは石田三成との距離感もあります。

現在は、西軍ファンが増えており、この二人は特に人気があります。

『戦国無双』シリーズのファンは、このコンビに真田幸村を加えた「義トリオ」という呼び名もあるほどです。

 

そんな現代視点のバイアスを取り除いて、見てみましょう。

徳川家が支配した江戸期では、家康に背いた者は悪人とされます。

石田三成との距離が近ければ近いほど、江戸時代はマイナス評価になります。ここを強調しても、隠蔽しても、いずれにせよ問題があります。

それがわかるのが、最上義光の動向です。

彼自身、豊臣政権に接近するのであれば、三成が一番有効だと考えていました。助言を求められた津軽為信にも、そう返答しているほどです。

ただ、義光自身はそれを上手く実現できず、家康ルートを探ることとなりました。

それほどまでに上杉家と三成は近しく、間には入れなかったのです。

この義光といい、伊達政宗といい、豊臣政権内では苦労を重ねています。

彼らにとっての最大の痛撃は、秀次事件でしょう。

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上杉家はさほど関与しておりません。

しかし、彼らに不満がなかったとも言い切れません。

朝鮮出兵に関しては、賛同する大名がいたかどうか甚だ疑問です。

文禄元年(1592年)の5月下旬、景勝は秀吉の代理として朝鮮に渡りました。6月から9月にかけて三ヶ月間ほど、熊川倭城の普請を行なっています。

この普請の最中、三成と吉継は景勝の名護屋城への帰陣準備を進めています。

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朝鮮出兵に消極的であったとされる三成と吉継と、上杉家は同調していたとみなせるものです。

 

会津百二十万石

そんな豊臣政権下での激動といえば、上杉家の会津への移封でしょう。

慶長3年(1598年)。
突如、その命令は下されました。

◆移封前
北信濃四郡

◆移封後
会津
出羽国・長井郡
陸奥国・伊達、信夫郡

移封後の所領に【出羽と陸奥】が含まれていることにご注目ください。

羽州探題を自認してきた最上義光。

奥州探題を自認してきたうえに、先祖のゆかりである伊達郡を支配された伊達政宗。

両者が苦い顔になったことが、想像できるような配置です。

「今まで生まれ育った越後を離れるなんて!」

そんな否定的な感情が上杉家中にはなかったのか? と問われれば、幾ばくか抱いた武将もいたでしょうけど、簡単に誰かに表明できるものでもありません。

メリットもあります。
上杉家臣は、楊北衆のように父祖伝来の土地に根ざす国衆が多くいました。彼らを根こそぎ移すことで、在地性を否定することもできるのです。

さらに……。
百二十万石となるからには堂々たる栄転――そう考えられるのも【会津】という土地柄が影響しておりました。

実は明治維新以前、会津は交通の要衝でした。そのため……。

会津の攻略に執念を燃やしたのが伊達政宗。

仮に奥州を制圧したとしても、会津蘆名家が存続していては玉に瑕とばかりに、【摺上原の戦い】で念願を成就させます。

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当時の最上義光あたりからすればヤキモキしたことでしょう。

秀吉の目が光っている時期にそんな真似をして何事もなく済むと思うのか。

実際に、会津を攻めたからにはもはや弁明は無理。小田原にまで行かなければならない。そう宣告されたようなものなのです。

それでも会津が欲しかった。

理由は、その位置です。会津は奥羽の入り口だったのです。

四道将軍のうち2名までが会津経由で奥州へ進軍しており、まさにここからという認識がありました。

江戸時代までは大内宿(大内宿観光協会サイト)が栄えており、そこを通らなければ奥羽に入れない。

徳川秀忠の異母弟である保科正之が治め、親藩として江戸幕府の要とされたのも、そういう重要性があればこそ。そんな場所でした。

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重要度が低下したのは、明治以降です。

明治政府にとって会津は憎むべき敵であり、陸の孤島にされました。そして奥羽への玄関口は【郡山】や【白河】とされたのです。

実際、現在でも東北新幹線が止まる駅は【郡山】です。

会津が陸の孤島と化したのは、明治以降であるという認識は重要でしょう。

ともかく、そんな要衝である会津百二十万石を上杉景勝に任せる――。

上杉家が、豊臣政権から絶大な信任を得ていたという証拠でもありましょう。

上杉家が会津を支配した期間は短いものです。それでも、彼らは会津にその軌跡を残しました。

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