戦国武将の直江兼続ってどんな人?
そう問われ、思わずニヤニヤしてしまう戦国ファンの方もいらっしゃるかもしれません。
彼を取り巻く環境を一言で表すなら「誤解」。
普通の戦国武将とは、まるで違うルートで知名度を挙げてきました。
一例がコチラです。

原哲夫マンガの兼続/アンサイクロペディアより引用
『花の慶次』に登場した直江兼続。
「利いたふうな口をきくな〜!」という決め台詞がAA(アスキーアート)にされ、ネット上に大拡散した過去があります。
また、彼の兜の前立てもよくなかった。
【愛】という尖った漢字一文字のため、アンサイクロペディアでは

完全にもてあそばれております/アンサイクロペディアより引用
【愛】ではなく【受】という文字でネタにされてしまう。
他に、人気の『戦国無双』や『戦国BASARA』といったアクションゲーム、ソーシャルゲームでも同様の扱いをされがちです。
【愛】の正体は【LOVE】ではありません。
本来は「愛染明王」なのですが、そんなことはお構い無しに散々イジられる――それが直江兼続です。
実は、名誉挽回のチャンスもありました。
しかし、よりにもよってそれが【致命的な一打】になってしまうとは、上杉ファンの皆さまも想像できない展開だったでしょう。
他でもありません。2009年大河ドラマの『天地人』です。
直江兼続が主役のこの作品。
戦国時代が舞台の大河では人気ワーストNo.1候補という不名誉な評価がつきまといます。
例えば、北の関ヶ原とも称される「慶長出羽合戦」において。
大河『天地人』では、兼続よりも人気の高そうな前田慶次はおろか、対戦相手の最上義光すら出さず、とんだ肩透かし作品として今じゃ地元民にも相手にされないような状況。
山形県民の歴史ファンに向かって
「直江兼続は山形県を代表する戦国武将ですよね」
と言うのは控えましょう。どうにも切ない表情をされることがあります(県内のエリアによる)。
そんな『天地人』から十年以上――今なおマイナス評価は尾を引いているようです。
ネット上では「(直江兼続は)義と愛の人」というイメージが皮肉られて「偽と哀の間違いでしょ」なんて書き込みをされるほど。
上杉ファンや兼続ファンの皆さんは、未だに傷心の日々です。
そこで微力ながら、本稿では真実の直江兼続に迫ってみたい。
戦国末期において上杉景勝の腹心を務め、家康を追い込んだ『直江状』の送り主とは一体どんな人物だったのか。

直江兼続/wikipediaより引用
1620年1月23日(元和5年12月19日)が命日となる、直江兼続の生涯を振り返ってみましょう。
三成と同じ歳生まれたの与六
直江兼続は永禄3年(1560年)、越後国魚沼郡上田荘坂戸城にて誕生しました。
幼名は与六。
父は樋口兼豊で、母は泉弥七郎重蔵の娘とされています。兄弟は、実頼と秀兼がおりました。
とは申し上げたものの、彼の生地、先祖、両親の出自などは諸説あってハッキリしておりません。
兼続の一代で景勝に引き立てられ、そして彼の子孫が断絶し、家が亡くなったのが影響しているのでしょう。

上杉景勝/wikipediaより引用
後述しますが、兼続そのものの評価も江戸時代に変動しています。記録が残りづらく、ナゾの多い経歴なのです。
彼の戦国同期には、名だたる武将が揃っておりました。
例えば、石田三成と後藤又兵衛基次は同年に誕生。若くして織豊時代を乗り切り、関ヶ原や大坂の陣を迎える年代です。
三英傑(織田信長・豊臣秀吉・徳川家康)の後で、伊達政宗よりは前――いわば中間世代でした。
上杉謙信との伝説は史実なのか?
幼少期の直江兼続に、こんな伝説があります。
聡明で美しい与六。
上杉謙信から義と愛、そして戦術の数々を学ぶ――。
いかにも戦国ファンが喜びそうなエピソードであり、ドラマなどでは欠かせないシーンになりますね。
フィクション作品によっては「謙信から激しく寵愛を受けていた」なんてパターンもあります。
しかし、史実面から見た場合、鵜呑みにするのは危険です。ここは少し慎重になり、上杉謙信伝説を考えてみたいと思います。
現在、米沢市で行われている「上杉まつり」(公式サイト)。
公式サイトをご覧の通り、トップ画像は上杉謙信と武田信玄です。

なぜ山形県の米沢で、川中島設定なの?
初代米沢藩主の上杉景勝は?
その腹心の直江兼続は?
とにかく上杉謙信の名前が偉大すぎるんですね。
景勝と兼続のコンビが声優トークショーに出てきた祭が、山形市の最上義光を讃える『よしあきフェタ』だったというのも、かなり切ない状況です。
兼続たちにとって義光はゴリゴリの敵なのですから。
ちょっと話が逸れました。要は、兼続の幼少期に出てくる謙信がらみのエピソードも、彼の華やかさアップを狙った脚色という可能性が高そうです。
兼続にとっての主君は上杉景勝です。
『直江状』あたりの文体から、上杉謙信伝説につながるようなホットなものは感じません。
そんなことよりも、冷徹に計算しきった――乱世を生き抜くノウハウ。それこそが彼の持ち味に思えます。
史実ベースで振り返るなら、とにかく「義と愛」バイアスは捨てねばならない。
それでも十分面白いのです。
例えば彼は文人としても一流でした。
兼続こそが、米沢に根付いた文化の親とも言えます。文書の保管や教育面においても絶大な貢献を果たしておりました。
彼が賢明だったことを証明するのに、上杉謙信の伝説など不要ではないでしょうか。
「御館の乱」から直江家当主へ
とはいえ景勝と兼続の生涯が、謙信の影響から逃れるはずもありません。
むしろグルグル振り回されました。
その最たる悲劇が上杉家を真っ二つにした【御館の乱(1578年)】でしょう。
【御館の乱】で、直江兼続とその父・兼豊はどんな活躍をしたか?
これは論功行賞からわかります。
関所での関銭徴収と、船一艘の入港税が免除。収入アップに直結する大きな褒美でした。
ちなみに当時の兼続は家督相続をしておらず、父子ともども活躍をしたとみられます。
実のところ、この父子がハッキリ躍進したと言えるのはこの御館の乱での活躍から。いち早く景勝側についたからこそ、その功績に報いられたのでしょう。
こうした経歴をふまえると、作り上げられた直江兼続像も見えてきます。
謙信時代からではなく、「御館の乱」を通して景勝によって引き立てられたのです。

後継者争いの舞台となった春日山城
しかしこのときの論功行賞は、思わぬ事態を同時に引き起こしました。
毛利秀広が、景勝側近の山崎秀仙を斬殺した挙句、止めに入った直江信綱まで命を落としてしまったのです。
論功行賞は武士にとって収入に直結する場面。ゆえに互いに本気になり、刃傷沙汰に発展することも珍しくありませんでした。
いずれにせよ直江家は、直江津で水運を司っていた名門です。
その断絶はあまりに惜しまれる。
そこで主君の上杉景勝は、信綱未亡人である「お船」に兼続を婿入りさせ、直江家を継がせることにしました。
実は、殺された信綱も婿で、お船が直江景綱の娘だったのですね。彼女の血があれば直江家は問題なく存続できます。
歳はお船が25才で兼続が22才。
兼続には側室がおりません。
フィクションでは夫婦愛だと強調されがちですが、婿入りの経緯や実家の格を考えてみると、側室を置ける状況であったとは考えにくい。
このことは、徳川秀忠とお江与にもあてはまることです。
側室の有無のみで夫婦の愛情を測定することはできません。

徳川秀忠/Wikipediaより引用
かくして、樋口家から、上杉家屈指の名門・直江氏の当主にまで登りつめた直江兼続。
華々しい活躍があっての出世とは言い難いものでした。
◆出世のキッカケ→上杉家中を真っ二つにする内乱
◆大出世のキッカケ→論功行賞トラブルによる刃傷沙汰
兼続が、謙信の寵愛や【義と愛】、お船との仲がやかに強調されるのは、こうした生々しい史実を隠すためではないか。
石田三成の「三献茶」をさらに大掛かりにしたような工作の跡を感じてしまいます。
むろん、兼続がただのシンデレラボーイとは思いません。
実は、彼の論功行賞には【税金関連】のものもあります。
財政センスに優れていたのでしょう。だからこそ、直江津の物流を司る直江家当主とされたのであれば、十分に納得ができます。
彼の内政センスは、後年の米沢時代にも発揮されます。
その片鱗は、若き日にも現れていたのですね。
上杉家とその周辺
「御館の乱」を乗り越えたあと、上杉家は織田信長の圧迫を受け、危機に陥りました。
ここで確認しておきたいのが、隣国・武田家の動向です。
実は「御館の乱」で、その当主・武田勝頼は景勝を支援しておりました。

武田勝頼/wikipediaより引用
景勝と対立した景虎の実家である北条を敵に回して上杉をチョイスしたのです。
北条との関係を断ち切った武田は、景勝に正室・菊姫(武田信玄・五女)を送ることで両家の結びつきを強化します。
この判断が武田家の滅亡を早めたミスともされます。
しかし、勝頼だけを責めるのは酷でしょう。武田の滅亡は、あくまで信玄時代からの積み重ねであり、複合的な要素が絡み合った結果ではないでしょうか。
このあたりは周辺大名との力関係も重要となってきます。
ハッキリと言い切れるのは、武田家の滅亡後、上杉家もまた追い詰められていくということです。
この時代の上杉を語る上で、武田家と織田家に目を向けるのは自然な流れです。
しかし、そればかり見ていると、どうしても見落としてしまうことがあります。
それが東と北に位置する敵――奥羽の大名。
主に最上家と伊達家でした。
上杉家は、奥羽の大名とも深い関係があります。
緊張感が頂点に達し、1600年に大きな合戦へと発展しますが、それは突如として起こったものではなく、紛争の火種は常に存在しておりました。
上杉というと、どうしても謙信vs武田のイメージを連想しがちです。しかし、兼続と景勝のコンビは東北でも色々と動きます。
ゆえに東北の両雄も併せて考慮せねばならず、ここで捉えておきたいのが
【伊達と最上が織田とどう付き合っていたか?】
という点です。
後に、豊臣秀吉、徳川家康へと繋がっていくため、非常に重要なところとなります。
伊達家と最上家。
両家と織田家との関係はこんなイメージです。
こうした上杉家と東北大名の間に挟まるように存在していたのが「揚北衆(あがきたしゅう)」です。
上杉家というと、義の下に一致団結しているように思えますが、それはあくまで神話。揚北衆の動向を見れば、そんなことはまったくないと伝わって来ます。
いつも上杉家についていたわけじゃねえぜ、謀反上等!
そんなアグレッシブな彼らが、織田家から圧迫を受ける景勝におとなしく従うワケがありません。
天正9年(1581年)――。
「御館の乱」の論功行賞に不満を抱いた新発田重家が、反旗を翻しました。
時を同じくして、武田家を討ち果たした織田勢が上杉家の魚津城に迫ります。
圧倒的敗北。絶望的な状況でした。
このまま越後まで攻め込まれ、軍神として恐れられた上杉も、いよいよ滅亡してしまうのではないか――。
そんな絶望的な魚津城の陥落。
にっちもさっちも行かなくなった景勝&兼続の前に驚天動地のニュースが届きました。
「本能寺の変」です。

織田信長/wikipediaより引用
織田信長が、家臣・明智光秀の謀反により命を落とし、日本中のパワーバランスが大きく狂いました。
この一大事に対し、上杉家・伊達家・最上家の北国3大名がどんな動きをすることになったか。
マトメてみましょう。
この構図。
今後、北の関ヶ原に際して、非常に重要となってきます。
豊臣政権への接近と佐渡平定
織田信長が倒れ、息を吹き返した上杉家。
直江兼続が石田三成と対面した時期は天正14年(1586年)辺りと考えられます。

石田三成/wikipediaより引用
それから2年後の天正16年(1588年)、景勝と兼続は主従で上洛しました。豊臣秀吉の九州平定を祝し、前年の新発田重家討伐も報告しております。
景勝は後陽成天皇のもとに参内し、従三位の位階も賜りました。
かつて信長に対抗して窮地に陥った上杉家、その後継者である秀吉には接近することで対処したのです。
ターニングポイントでした。
九州の島津家、奥州の伊達家と比べると、かなりスムーズに接近しています。
天正17年(1589年)には、上杉家は佐渡島討伐を果たしました。
これも歴史的に見て、興味深いものです。
佐渡島を支配し、上杉家に討伐された本間氏の中には、庄内地方へと逃れたものもおりました。
その子孫が、東日本随一の商人となります。
庄内藩で、彼らはこう歌われたほどでした。
「本間様には及びもないが せめてなりたや殿様に」
【意訳】本間様みたいにリッチになるのは無理だけど、殿様レベルになれたらいいよね
しかし、この佐渡平定を、納得できない思いで見る人物がおりました。
最上義光です。
このころ楊北衆の本庄繁長が、最上領だった庄内へ侵攻。
伊達政宗と大崎氏をめぐり争っていた最上義光は出兵すら思うようにできず、大敗を喫します。
大名が勝手に戦をしてはならない――と、当時、秀吉の命令で出された「惣無事令」。
実効性を疑う声は今なお多いものですが、少なくとも義光は停戦命令は有効だと考えていたようです。
現実は、そうではありませんでした。
上杉のルール違反。
それを許す豊臣政権のダブルスタンダード。
義光の中に不信感が募っていきます。
外交ルートを模索するものの、直江兼続(上杉家)と石田三成の強固な関係には割り込めないと諦め、義光は別口を当たるしかありません。
それが徳川家康でした。

徳川家康/wikipediaより引用
後の関ヶ原の戦いで、最上義光が東軍に真っ先についたのは、娘の駒姫を秀吉に殺されたから――そう説明されることは多いです(豊臣秀次事件)。
確かにそれは大きな要因でしょう。
しかし、義光は以前から、上杉家への不信感を機に徳川家康へ接近していたことも重要です。
関ヶ原へ向かう種は、この辺りから芽吹いていたのです。
兼続を考えるうえで気をつけたいところ
そしてここが、直江兼続を考える上で重要な点でもあります。
兼続の戦績などが、何か靄がかかったようにモヤモヤとしてしまうこと。これには東北戦国史の影響もあると思われます。
直江兼続の活躍を語る上で欠かせない最上義光が世間的にはあまりに地味な存在です。
江戸時代初期の『奥羽永慶軍記』等では、兼続の強敵として登場する最上家。
しかし、最上家が改易された事情等から出番が減っていき、現在のフィクションでは雑魚扱いが基本です。
前田慶次にやられてしまった『花の慶次』。最上家そのものが消滅していた『天地人』はその典型例でしょう。
そして最上家の代わりに引っ張り出されてくるのが、伊達政宗です。

伊達政宗/wikipediaより引用
直江兼続と伊達政宗というと、いかにも見栄えのするラインナップかもしれません。
しかし、両者の関係は薄い。フィクションでは、それでも無理に争わせたりするものだから、結果的に、兼続の人生そのものが混乱する。
謙信時代の上杉家には、武田信玄という鉄板のライバルがいました。
そうでなくなった景勝時代以降、フィクションでは混沌としてしまう弊害が生じているのです。
兼続が主役ではなく、脇役だった『真田丸』。
景勝のそばで冷徹な意見を申し上げる姿は、鮮烈なキャラクターを視聴者の心に印象づけましたが、ウソで塗り固めない自然な描き方のほうが個性的になりました。
そうです。『直江状』も含めて兼続は、史実通りで十分に魅力的になれる。そこをキッチリと考えていきたい。
もう一点。兼続像をモヤモヤとさせる原因。
それが「義」です。
上杉家は「義」のために戦ったのか?
謙信は、他の大名と比べて慈悲深かったのか?
冷静に考えて、そうとはとても思えません。
持ち上げられがちな景勝と兼続主従の「義」とは、豊臣政権に尽くしたことがその根拠でしょう。
徳川ではなく、最後まで豊臣に従った――。いやいや、それは傾いた見方です。
上杉家が豊臣政権という権力を利用したとも言える。それが、どっぷり浸かりすぎていたため、途中から徳川家に乗り換えるチョイスなんてなかっただけ。
上杉家が、巨大なパワーに反抗的な気質を持っていたと認識するのは無理があります。佐渡平定にせよ、豊臣政権の下で勢力を拡張しておりました。
豊臣政権における「奥羽仕置」での上杉家の立場が、山形県内での景勝&兼続の評価を難している一面もあります。
最上と上杉に挟まれていた庄内地方では、太閤検地に逆らう一揆が頻発しました。
それを力で黙らせろ!とばかりに、上杉家はかなり強引な処罰を行い、庄内地方を疲弊させたのです。
その際、上杉家に反旗を翻した池田盛周(もりちか)は、最上家・鮭延秀綱の下へ逃亡。
「豊臣政権に逆らったからには悪だ」という意味を込め、悪次郎と名乗るようになりました。
そして開墾に尽くし、地元住民は彼の作った堰を「悪次郎堰」(現真室川町)と呼ぶようになります。
改名せよと命じられても、断り続けたというほどです。
こうして荒れ果てた庄内地方を豊かにしたのは、これまた最上家臣・北楯利長(きただて としなが)の功績です。
庄内地方には、直江兼続を慕う理由はまったくありません。むしろ恨みの方が先に立つ。
山形県民に、
「山形を代表する戦国武将といえば、直江兼続ですね!」
と言っても、地域によっては反応が鈍い理由をご理解いただけたでしょう。
なお、庄内の一揆鎮圧や検地において、兼続と積極的に協力していたのは、大谷吉継でした。

絵・富永商太
このことも非常に重要です。
直江兼続(上杉家)と豊臣政権の中枢にいる石田三成・大谷吉継はそれだけ親しかったということになります。
兼続と三成と豊臣政権と
直江兼続の評価を難しくしている点――。
それは石田三成との距離感もあります。
現在は、西軍ファンが増えており、この二人は特に人気があります。
『戦国無双』シリーズのファンは、このコンビに真田幸村を加えた「義トリオ」という呼び名もあるほどです。
そんな現代視点のバイアスを取り除いて、見てみましょう。
徳川家が支配した江戸期では、家康に背いた者は悪人とされます。
石田三成との距離が近ければ近いほど、江戸時代はマイナス評価になります。ここを強調しても、隠蔽しても、いずれにせよ問題があります。
それがわかるのが、最上義光の動向です。
彼自身、豊臣政権に接近するのであれば、三成が一番有効だと考えていました。助言を求められた津軽為信にも、そう返答しているほどです。
ただ、義光自身はそれを上手く実現できず、家康ルートを探ることとなりました。
それほどまでに上杉家と三成は近しく、間には入れなかったのです。
この義光といい、伊達政宗といい、豊臣政権内では苦労を重ねています。
彼らにとっての最大の痛撃は、豊臣秀次事件でしょう。

豊臣秀次/wikipediaより引用
上杉家はさほど関与しておりません。
しかし、彼らに不満がなかったとも言い切れません。
朝鮮出兵に関しては、賛同する大名がいたかどうか甚だ疑問です。
文禄元年(1592年)の5月下旬、景勝は秀吉の代理として朝鮮に渡りました。6月から9月にかけて三ヶ月間ほど、熊川倭城の普請を行なっています。
この普請の最中、三成と吉継は景勝の名護屋城への帰陣準備を進めています。
朝鮮出兵に消極的であったとされる三成と吉継と、上杉家は同調していたとみなせるものです。
会津百二十万石
そんな豊臣政権下での激動といえば、上杉家の会津への移封でしょう。
慶長3年(1598年)、突如、その命令は下されました。
◆移封前
北信濃四郡
↓
◆移封後
会津
出羽国・長井郡
陸奥国・伊達、信夫郡
移封後の所領に【出羽と陸奥】が含まれていることにご注目ください。
羽州探題を自認してきた最上義光。
奥州探題を自認してきたうえに、先祖のゆかりである伊達郡を支配された伊達政宗。
両者が苦い顔になったことが、想像できるような配置です。
「今まで生まれ育った越後を離れるなんて!」
そんな否定的な感情が上杉家中にはなかったのか? と問われれば、幾ばくか抱いた武将もいたでしょうけど、簡単に誰かに表明できるものでもありません。
メリットもあります。
上杉家臣は、楊北衆のように父祖伝来の土地に根ざす国衆が多くいました。彼らを根こそぎ移すことで、在地性を否定することもできるのです。
さらに……百二十万石となるからには堂々たる栄転――そう考えられるのも【会津】という土地柄が影響しておりました。
実は明治維新以前、会津は交通の要衝でした。
そのため会津の攻略に執念を燃やしたのが伊達政宗。
仮に奥州を制圧したとしても、会津蘆名家が存続していては玉に瑕とばかりに、【摺上原の戦い】で念願を成就させます。
当時の最上義光あたりからすればヤキモキしたことでしょう。
秀吉の目が光っている時期にそんな真似をして何事もなく済むと思うのか。

豊臣秀吉/wikipediaより引用
実際に、会津を攻めたからにはもはや弁明は無理。小田原にまで行かなければならない。そう宣告されたようなものなのです。
それでも会津が欲しかった。
理由は、その位置です。会津は奥羽の入り口だったのです。
四道将軍のうち2名までが会津経由で奥州へ進軍しており、まさにここからという認識がありました。
江戸時代までは大内宿(大内宿観光協会サイト→link)栄えており、そこを通らなければ奥羽に入れない。
徳川秀忠の異母弟である保科正之が治め、親藩として江戸幕府の要とされたのも、そういう重要性があればこそ。そんな場所でした。
会津藩校「日新館」は全国屈指の優れた教育施設であり、吉田松陰が見学に訪れていたほどですね。
重要度が低下したのは、明治以降です。
明治政府にとって会津は憎むべき敵であり、陸の孤島にされました。そして奥羽への玄関口は【郡山】や【白河】とされたのです。
実際、現在でも東北新幹線が止まる駅は【郡山】です。
会津が陸の孤島と化したのは、明治以降であるという認識は重要でしょう。
ともかく、そんな要衝である会津百二十万石を上杉景勝に任せる――。
上杉家が、豊臣政権から絶大な信任を得ていたという証拠でもありましょう。
上杉家が会津を支配した期間は短いものです。それでも、彼らは会津にその軌跡を残しました。
豊臣政権にとって「東の切り札」
会津は重要な土地――。
豊臣政権においても、そう認識されていたのがわかるのが蒲生氏郷でしょう。
織田信長の娘を正妻に迎えるほど、若き頃から才知認められていた武将に、その統治が任されたのです。

蒲生氏郷/wikipediaより引用
しかし、それが同時に政宗のプライドを刺激し、両者は険悪な関係となっています。
仙台が東北第一の発展を遂げるのは、あくまで江戸時代以降です。
それまでは何と言っても会津こそが奥州の要でした。
そこを取りあげられて、上方の氏郷が支配する。政宗を筆頭に、奥州の民からすれば我慢ならぬことだったのです。
そして、この氏郷が若くして急死したため、話は余計にややこしくなります。
氏郷の嫡男であり、家督を継いだ若年の蒲生秀行にとって、会津は重すぎました。
そこで上杉家に取って代わられるのです。
しかし、蒲生家の移封は、彼個人の器量だけでなく、【秀吉が氏郷の正室を側室にしようとして断られた】という怨恨説もあります。
あるいは蒲生秀行が、家康三女の振姫を正室としたというのも、豊臣政権から疎まれる理由として説得力があります。
怨恨説はさておき、複合的な要因があるのでしょう。
伊達や最上を抑える会津に、若年の当主ではあまりに頼りない――石田三成がそう焦燥を募らせたとしても、無理のないところ。ゆえに上杉家を入れた。

石田三成/wikipediaより引用
このことから、三成はじめとする豊臣政権の意向と、その意を受けた上杉家の動向は一致するのです。
会津を舞台にした兼続の戦略。
奥羽の関ヶ原への布石。
会津に上杉家がいた期間は短い間ですが、この会津時代を考慮せずに、直江兼続の生涯を振り返ることはできません。
慶長5年(1600年)関ヶ原の戦い――。
天下分け目において、いかに
【石田三成・大谷吉継・上杉景勝・直江兼続】
たちの結びつきが深かったか。
御家の命運に至るまで、彼らはしっかりと共闘していたのです。
幻の決戦
迎えた慶長5年(1600年)――。
中央の動向は、石田三成の動きを見たほうがわかりやすいかもしれません。
しかし、東国となれば話は変わってきます。
上杉主従の出番です。
上杉家の居城は、会津若松城。しかし、ここまで攻め込まれてはあとがありません。
兼続が防衛戦略に考えていた城は、別にありました。
会津には、蘆名氏以来の城が残されていたのです。
向羽黒山城は奥州最大ともされるほどの規模。こうした城に加えて、兼続が着手したのが神指城(こうざしじょう)でした。

神指城跡周辺/photo by
wikipediaより引用
西側の阿賀川を背にし、東には白河街道にのぞむ、大規模な城となる。
慶長5年(1600年)2月、雪解けを待つようにして工事に取り掛かったのでした。
完成に至らないながら、その構想は雄大なものでした。
朝鮮出兵以来、全国的に向上の見られた築城技術。当時、最新鋭の城が出来上がるはずであったのです。
皮肉にもこの決戦からおよそ二百六十年後、この城が生かされることとなります。
斎藤一率いる会津藩配下の新選組が、この城跡に立てこもり西軍と戦ったのです。

斎藤一/wikipediaより引用
多勢に無勢で、新選組は大敗北。
その時まで、利用できる跡が残されていたことは、驚異的ではないでしょうか。
兼続が想定していた決戦の地は、会津ではありません。
白河こそが激突、天下分け目の合戦の場所となるはずでした。
奥羽街道以外のルートを封鎖し、家康がそこから飛び込んでくることを待つ手はずでした。
決戦地は皮籠原(かごはら)――。
対するは上杉・佐竹連合軍。
12万2千vs徳川軍6〜8万でぶつかれば勝利も不可能ではない。その段階では想像もできませんが、関が原本番以上の大戦となる可能性もあります。
防塁を築き、白河城で迎え撃つ。
現在の福島県から栃木県までまたがる、大規模な決戦が予測されておりました。
こうして考えてくると『直江状』がいかに挑発的であったかわかろうというものです。
『直江状』は実在したのか?
というと、江戸期以降に加筆修正はあったものの、実在したとみなされています。
上杉謀反を捏造し、家康がケチをつけてきたことへの痛快な回答という捉え方もあります。

徳川家康/wikipediaより引用
あるいは政宗と義光が密告したという見方もありますが、これには無理があります。
会津に家康との決戦に備えた史跡はじめ証拠が多数あるからには、家康が警戒してもやむを得ないのではないでしょうか。
上杉家が会津において無策であった、一方的に難癖をつけられただけ、と言い張る方が兼続を過小評価しているのではないでしょうか。
「慶長出羽合戦」の難しさ
しかし、この大決戦は幻に終わります。
兼続の想定していた天下分け目の決戦は、場所を西に移して関ヶ原へ。
そしていよいよ「北の関ヶ原」こと慶長出羽合戦となるわけです。
直江兼続の真骨頂となるシーンです。
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慶長出羽合戦(北の関ヶ原)では上杉・最上・伊達の東西両軍が激突!その結果は?
続きを見る
細かな経過は上記の記事をご参照ください。
本記事では、兼続の人生でクライマックスでありながらいまいちわかりにくい慶長出羽合戦。特に、フィクションでの扱いがモヤモヤしがちな――その理由を考えてみたいと思います。
◆江戸期にはどうしても語りにくい
天下人の家康に楯突いて敗北した扱いですので、良くは語りにくい。
◆兼続を盛りすぎる
兼続の人生に箔をつけたい。そんな気持ちは理解できなくもありません。それをやりすぎてしまって、無理矢理彼を上杉謙信と英雄三傑に引き寄せる傾向があります。
謙信が愛し、信長が恐れ、秀吉が信頼し、家康が最も恐れた男――盛りすぎてもう何がしたいのか、意味がわかりません。
しかし、こういうノリの書籍やフィクションは存在します。
◆そして奥羽大名との関係性が不明瞭に
本稿では繰り返し、最上義光と伊達政宗の動向を記してきました。
それは単純な好き嫌いではなく、兼続の生涯をわかりやすくするためです。
上杉と最上は、庄内地方をめぐり長いこと対立が続いて来ました。伊達は、上杉が会津と伊達郡を支配することを承知できるはずがない。
そして「慶長出羽合戦」とは、彼らにとってこうした因縁の土地を奪う絶好の好機でした。
そうした積年の怨恨を考えなければ「慶長出羽合戦」は理解しにくくなるのです。
◆なぜ無理矢理、兼続vs政宗にするのか?
『天地人』ではよりにもよって、最上義光が兜シルエットでしか出てこないという、おそろしいことをやらかしたものです。
これも知名度の問題でしょう。
英雄三傑には劣るものの、ビッグスターの政宗と戦った方がカッコいいというノリ。
しかし、政宗自身は、そもそも最上領に到達していないのです。
結果、最上義光に対して極めて失礼であるばかりか、合戦の経過も意味がわからなくなってしまいました。

長谷堂合戦で直江兼続を追撃する最上義光『長谷堂合戦図屏風』/wikipediaより引用
◆雑魚扱いされる最上勢
それでも、どうしても出さねばならない最上勢。そうなると、雑魚扱いされます。
作品そのものとしては面白い『花の慶次』が典型例です。
主人公の前田慶次が「ともかく強い」と言いたいあまり、最上軍の兵力が倍増されたうえに『北斗の拳』のモヒカンチンピラのようになってしまいました。
しかし、江戸時代の軍記『奥羽永慶軍記』には、こう記されております。
「鮭延の武勇はすさまじい。上杉謙信公が、かの武田信玄公と戦った時ですら、このような勇者はいなかったであろう」
直江兼続が、敵・最上配下の鮭延秀綱を絶賛し、褒美まで贈ったという記載があるのです。
実際、最上家改易の際には、鮭延秀綱には熱い目線が注がれました。
あの長谷堂の勇者を是非うちに!と、ザワついたほどです。
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鮭延秀綱の生涯|最上家の勇猛実直な名将が御家騒動を長引かせてしまう
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長谷堂城をなかなか落とせず、焦燥していると思われる書状や記録も残されています。
対戦相手を貶めた結果、兼続自身にも胡散臭さが漂う。
残念な作用がそこにはあるのです。
◆勝ったとは言えないのでは
これが最大の問題点でしょう。
この合戦での殊勲賞は兼続になるかと言われたら、そうではない気がします。
前述の鮭延秀綱、前線に立って兜に被弾した最上義光の方が、ふさわしいのかもしれません。
その点、少し詳しく見てみますと……。
◆「上杉勢は一気呵成に最上領に侵入した」というのは?
最上側が「明け逃げ」(=撤退戦術)を選択したということでもあります。
山形城手前の長谷堂、上山、畑谷といった城で迎撃する予定だったと見なせます。それならば一気呵成の進軍も、さほど難しいことではない。
◆最上義光の討伐手前まで行ったのか?
兼続が、長谷堂、上山、畑谷を軽々と抜いていれば、一気呵成と断言できましょう。しかし……。
・長谷堂→△ 攻略できず
・上山→× 大敗
・畑谷→○ 一気に殲滅
3戦して1勝1敗1引き分けです。長谷堂も、予定より落城に時間がかかり過ぎて、兼続自身が焦っていました。
最上勢は、もう勝てないと覚悟していたとは言われております。
数の差を考慮すればそうなることも当然でしょう。
◆撤退戦は見事であった
最上侵攻よりも、撤退戦こそが見事であるとされています。
それはそうでしょう。
あの義光も「直江は古今無双の兵だ!」と絶賛しています。難しい撤退戦をよくぞこなしたとは言えますが……。
撤退戦とはいえ、そもそも上杉勢の方が多い。
最上領内に取り残され、降伏した将がいる。
農兵に殺害された兵も多い。
兼続自身は無傷でも、それは上杉勢全体がそうであったとは言えない。
最上に降った将の中には、庄内攻略で活躍した者もいる。
そうしたことを考えていくと、ちょっと評価が難しいものがあります。過大評価はできないということです。
フィクションでも、このあたりがなかなか混沌として来ているものがありまして。
前田慶次と上泉主水信綱は、対最上戦に参戦。
一方で岡左内定俊、車丹波斯忠は対伊達戦に参戦しています。
しかし情勢がややこしいため、フィクションではまとめる、省く、義と愛で何とかする……といった処理をするため、どうにも不明瞭になってしまうのです。
重ねて申し上げますが、以下の記事をご覧いただき、戦いの流れを整理をしていただければと思います。
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慶長出羽合戦(北の関ヶ原)では上杉・最上・伊達の東西両軍が激突!その結果は?
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残念ながら、大河ドラマ『天地人』のことは忘れてください。何の参考にもなりません。
なお、ここまで読んできて、筆者は直江兼続が嫌いなのではないか? と思われても仕方のないところではあります。
そんなことはないのです。
直江兼続は、戦略、戦術ともに見事としか思えません。戦略としては、白河での決戦予想でしょう。雄大で興味深く、魅力があります。
戦術の代表例は、鉄砲の開発に尽力していたことがあげられます。
兼続は、積極的に鉄砲の開発に取り組んでいたのです。
新型銃の入手、銃弾の改良、職人の確保と好待遇の整備、射撃訓練等。そこには、兼続のきめ細やかな気配りと大胆な発想がありました。
撤退戦で最上勢を苦しめ、義光の兜に銃弾を当てたのは、こうした鉄砲の強化があってこその成果でした。
兼続は軍法も整備しています。
マネジメント能力は一流であると評価できます。
問題があるとすれば、後世のフィクションがその部分を適切に評価せず、道徳心といった的外れなことばかりを取り上げることです。
兼続自身は、才知にあふれ、魅力的で有能な人物です。これは間違いありません。
そんなありのままの兼続に迫れないのだとしたら、後世のアプローチに問題があるのではないでしょうか。
米沢三十万石
無念の敗戦を経て、上杉家は会津百二十万石から米沢三十万石に減封されました。
上杉鷹山が藩主となる頃には破綻寸前。

上杉鷹山/wikipediaより引用
東の上杉家、西の島津家と言えるほど、おそろしい財政状況でした。
複合的要因が重なるとはいえ、そもそもの発端は「直江状」では?となるわけです。
江戸時代には「神君に挑んだ挙句、米沢藩を困窮させた奸臣」という評価までなされておりました。このことは、兼続を考える上で重要な点です。
現代において兼続が過大評価されがちになるとすれば、江戸時代に蔑まれたところからの反動もあるのです。
敗戦の最大責任者とも言える兼続ですが、景勝は家老として登用し続けます。
その理由とは、彼の行政能力が抜きん出ていたからです。
かつては伊達家の本拠地であった米沢。
そこに移封された上杉家を、どうすべきか?
兼続の働きは終わりません。
・屋敷割の指揮を執る
・町人町、寺町の整備
・寺社の整備、禅林寺の創建
・治水工事(直江堤他)、植林事業
・職人招聘、鉄砲技術の向上
・青苧、漆、紅花等栽培の開始
・学問と文化の奨励、『文選』直江版、『亀岡文殊堂奉納詩歌百首』、禅林文庫は特に特に著名
こうした中『四季農戒書』を著したともされますが、現在では疑念が抱かれています。
実際に彼が記したかどうかよりも、直江兼続の名を使うほど伝説的だったということでしょう。
兼続は、文人としても名を馳せ、家臣と行った連歌会での作品も残されています。和漢に成熟した高い教養を感じさせるのです。
彼がどんな教育を受けたのか。
不明な部分もありますが、こうした成果を見れば、かなりの教養を身につけていることは明白です。
いずれにせよ、米沢の現在まで残る街並みや史跡整備を行ったのは、兼続の手腕であるのです。
米沢市は、伊達政宗生誕の土地であっても、あの町はあくまで上杉の城下町でもあります。
前述の通り、謙信推しが激しすぎないかという疑念も、上杉の誇りあればこそという信念でしょう。
よろしければ是非、上杉の城下町・米沢に訪れてみてください。素晴らしい場所です。
上杉家の「大坂の陣」
そんな苦難の上杉家でも、どうしたってその心情を考慮したくなるのが、慶長19年(1614年)から始まった「大坂の陣」です。
かつて共に戦った豊臣に引導を渡す心苦しさ。2016年大河ドラマ『真田丸』では、見事に描かれておりました。
上杉家が活躍を遂げたのは、鴨野・今福合戦です。
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窮地に陥った佐竹義宣から援軍要請を受け、戦い抜いた上杉勢。
その活躍により、東軍は勝利を確たるものとしました。
このとき、上杉家は謙信以来の武門として敬意を集めていたことが『名将言行録』等から伺えます。
関所を建てて、大坂に入場する者を取り締まれと進言を受けた家康。
ここで判断に迷った家康が「こういうときは景勝に聞くといい」と本多正信を派遣しました。

上杉景勝/wikipediaより引用
これに対し景勝は、
「所詮一揆同然のもの。少なければよいだろうが、増えれば揉めて分裂する。関所をつくる必要はない」
と答えたとされます。
真偽のほどは定かではない逸話も多いものですが、重要であるのはこうした上杉家の武勇を伝える話が広まっていたという点ではないでしょうか。
こうした逸話の拡散からは、戦国からの気質を受け継ぎ、堂々と振る舞う上杉家の姿が窺えます。
こうした姿こそが、上杉家なのでしょう。
武門の誉れある家を、格別なものとして重んじる精神性が見て取れます。
戦国の終焉を告げる戦いにおいて、上杉家はその存在感を見せたのです。
残らぬ家、残した名
いついかなる時でも、主君のために尽くして来た兼続。
しかし、家名を残すことはできませんでした。
「大坂の陣」集結の慶長15年(1615年)、
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大坂夏の陣はドコでどんな戦いが起きていた?幸村や又兵衛など個々の戦いに注目
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嫡子・景明が死去。

直江景明/wikipediaより引用
養子であった本多政重(本多正信二男)は、慶長16年(1611年)に出奔します。
さらに景明誕生前に養子としていた本庄長房(本庄繁長三男)は、誕生時に養子を解消されていました。
かくして名門である直江家は、嫡子がいない状態となったのです。
元和5年(1619年)、多くの人の死を見送って、兼続自身も死の床に倒れました。
その年の末、江戸鱗屋敷で病死したのです。
享年60。
死後、直江家は無嗣断絶となりました。
それでも直江兼続の名は、長らく語り継がれることになります。
書いていて、ここまで辛辣になりつつ人物伝を書いてよいものかと自問自答しました。
筆者は直江兼続が嫌いなのか?
決してそんなことはありません。
ただ、参考文献を当たっていても、どうしても疑念ばかりが湧いてきてならないのです。
謙信、政宗、そして英雄三傑との繋がりばかりを強調する傾向。
「慶長出羽合戦」の扱いのおかしさ。
連呼される「義と愛」。
そのせいで、兼続像は歪んでいると痛感させられました。むしろそういうものを求めると、一体こいつは何なのか?となるかもしれません。
後世に追加されたそうした要素を、どうすれば取り除き、ありのままの魅力が伝えられるのか。
直江兼続が偉大で魅力的であるのは、彼が彼であるからなのです。
そこには、別の誰かの知名度や、義や愛といったキャッチコピーは不要であるはずです。対戦相手を貶める必要もないはずです。
そうしたキャッチーなことばかり強調するのは、むしろ兼続自身への侮辱であり、これこそが不義ではないでしょうか。
そうして考えて、いろいろ悩みながら挑んだ結果、どっと疲れが湧いて来ました。
繰り返しますが、直江兼続に一切の悪意はありません。
ただ、彼自身に向かい合いたかったのです。限られた記事とはいえ、真摯に向き合いたいと考えた結果です。
米沢で彼ゆかりの史跡を巡ったとき、感じた魅力が、少しでも伝わればよいと祈りつつ書きました。
ここまで読んでくださった皆様に、感謝いたします。
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【参考文献】
『直江兼続の新研究』(→amazon)
粟野俊之『日本史史料研究会選書13 最上義光』(公式サイト)
高橋充『東北近世の胎動 5』(→amazon)
『国史大辞典』
他









