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【直江兼続】
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米沢三十万石
無念の敗戦を経て、上杉家は会津百二十万石から米沢三十万石に減封されました。
上杉鷹山が藩主となる頃には破綻寸前。
東の上杉家、西の島津家と言えるほど、おそろしい財政状況でした。
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複合的要因が重なるとはいえ、そもそもの発端は「直江状」では?となるわけです。
江戸時代には「神君に挑んだ挙句、米沢藩を困窮させた奸臣」という評価までなされておりました。このことは、兼続を考える上で重要な点です。
現代において兼続が過大評価されがちになるとすれば、江戸時代に蔑まれたところからの反動もあるのです。
敗戦の最大責任者とも言える兼続ですが、景勝は家老として登用し続けます。
その理由とは、彼の行政能力が抜きん出ていたからです。
かつては伊達家の本拠地であった米沢。
そこに移封された上杉家を、どうすべきか?
兼続の働きは終わりません。
・屋敷割の指揮を執る
・町人町、寺町の整備
・寺社の整備、禅林寺の創建
・治水工事(直江堤他)、植林事業
・職人招聘、鉄砲技術の向上
・青苧、漆、紅花等栽培の開始
・学問と文化の奨励、『文選』直江版、『亀岡文殊堂奉納詩歌百首』、禅林文庫は特に特に著名
こうした中『四季農戒書』を著したともされますが、現在では疑念が抱かれています。
実際に彼が記したかどうかよりも、直江兼続の名を使うほど伝説的だったということでしょう。
兼続は、文人としても名を馳せ、家臣と行った連歌会での作品も残されています。和漢に成熟した高い教養を感じさせるのです。
彼がどんな教育を受けたのか。
不明な部分もありますが、こうした成果を見れば、かなりの教養を身につけていることは明白です。
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いずれにせよ、米沢の現在まで残る街並みや史跡整備を行ったのは、兼続の手腕であるのです。
米沢市は、伊達政宗生誕の土地であっても、あの町はあくまで上杉の城下町でもあります。
前述の通り、謙信推しが激しすぎないかという疑念も、上杉の誇りあればこそという信念でしょう。
よろしければ是非、上杉の城下町・米沢に訪れてみてください。素晴らしい場所です。
上杉家の「大坂の陣」
そんな苦難の上杉家でも、どうしたってその心情を考慮したくなるのが、慶長19年(1614年)から始まった「大坂の陣」です。
かつて共に戦った豊臣に引導を渡す心苦しさ。2016年大河ドラマ『真田丸』では、見事に描かれておりました。
上杉家が活躍を遂げたのは、鴨野・今福合戦です。
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窮地に陥った佐竹義宣から援軍要請を受け、戦い抜いた上杉勢。その活躍により、東軍は勝利を確たるものとしました。
このとき、上杉家は謙信以来の武門として敬意を集めていたことが『名将言行録』等から伺えます。
関所を建てて、大坂に入場する者を取り締まれと進言を受けた家康。
ここで判断に迷った家康が「こういうときは景勝に聞くといい」と本多正信を派遣しました。
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これに対し景勝は、
「所詮一揆同然のもの。少なければよいだろうが、増えれば揉めて分裂する。関所をつくる必要はない」
と答えたとされます。
真偽のほどは定かではない逸話も多いものですが、重要であるのはこうした上杉家の武勇を伝える話が広まっていたという点ではないでしょうか。
こうした逸話の拡散からは、戦国からの気質を受け継ぎ、堂々と振る舞う上杉家の姿が窺えます。
こうした姿こそが、上杉家なのでしょう。
武門の誉れある家を、格別なものとして重んじる精神性が見て取れます。
戦国の終焉を告げる戦いにおいて、上杉家はその存在感を見せたのです。
残らぬ家、残した名
いついかなる時でも、主君のために尽くして来た兼続。
しかし、家名を残すことはできませんでした。
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嫡子・景明が死去。
養子であった本多政重(本多正信二男)は、慶長16年(1611年)に出奔します。
さらに景明誕生前に養子としていた本庄長房(本庄繁長三男)は、誕生時に養子を解消されていました。
かくして名門である直江家は、嫡子がいない状態となったのです。
元和5年(1619年)。
多くの人の死を見送って、兼続自身も死の床に倒れました。
その年の末、江戸鱗屋敷で病死したのです。
享年60。
死後、直江家は無嗣断絶となりました。
それでも直江兼続の名は、長らく語り継がれることになります。
書いていて、ここまで辛辣になりつつ人物伝を書いてよいものかと自問自答しました。
筆者は直江兼続が嫌いなのか?
決してそんなことはありません。
ただ、参考文献を当たっていても、どうしても疑念ばかりが湧いてきてならないのです。
謙信、政宗、そして英雄三傑との繋がりばかりを強調する傾向。
「慶長出羽合戦」の扱いのおかしさ。
連呼される「義と愛」。
そのせいで、兼続像は歪んでいると痛感させられました。むしろそういうものを求めると、一体こいつは何なのかとなるかもしれません。
後世に追加されたそうした要素を、どうすれば取り除き、ありのままの魅力が伝えられるのか。
直江兼続が偉大で魅力的であるのは、彼が彼であるからなのです。
そこには、別の誰かの知名度や、義や愛といったキャッチコピーは不要であるはずです。対戦相手を貶める必要もないはずです。
そうしたキャッチーなことばかり強調するのは、むしろ兼続自身への侮辱であり、これこそが不義ではないでしょうか。
そうして考えて、いろいろ悩みながら挑んだ結果、どっと疲れが湧いて来ました。
繰り返しますが、直江兼続に一切の悪意はありません。
ただ、彼自身に向かい合いたかったのです。限られた記事とはいえ、真摯に向き合いたいと考えた結果です。
米沢で彼ゆかりの史跡を巡ったとき、感じた魅力が、少しでも伝わればよいと祈りつつ書きました。
ここまで読んでくださった皆様に、感謝いたします。
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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link)
【参考文献】
『直江兼続の新研究』(→amazon)
粟野俊之『日本史史料研究会選書13 最上義光』(公式サイト)
高橋充『東北近世の胎動 5』(→amazon)
『国史大辞典』
他