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【穴山信君(穴山梅雪)】
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取次役をつとめ、外交に活躍する
永禄10年(1567年)10月19日、武田信玄は嫡男の武田義信を自刃させました(病死説も)。
義信は今川家から正室を迎えており、その背景には今川家との同盟を破棄するか否か、外交上の決断があったとみなせます。
つまり今川家と共に義信は見捨てられてしまったわけですが、穴山家も無事では済まされず、信君の弟・信嘉も自刃に追い込まれました。
信君は武田家中で外交交渉を担い、特に、駿河の今川氏、徳川氏の取次役をつとめていました。
後の天正7年(1579年)、徳川家康は織田信長の命を受け、嫡男の松平信康、そして、その生母で正室の築山殿を処断します。
二人が死に追い込まれたのは「武田との内通疑惑があったから」という説は根強く囁かれますが、もしそれが史実であれば、御一門の一人として信君が暗躍していた可能性は小さくないでしょう。
時間を少し戻します。
元亀4年(1573年)4月に武田信玄が世を去すると、武田家の家督は四男・勝頼が継ぐことになりました。
しかし、この継承は非常に危ういものです。
当の信玄からして、勝頼を後継者ではなく、あくまで中継ぎと考えていた。
そんな状況の中で、御一門に列せられ、勝頼の姉を妻に持つ信君は、勝頼を軽んじる家臣の代表格と見られてもおかしくはありません。
家中の結束が乱れる一方、周辺大名は蠢き始めます。
信玄の死から二年後の天正3年(1575年)5月21日、織田徳川連合軍との間で【長篠の戦い】が勃発したのです。
長篠の戦い
長篠の戦いを迎えるにあたり、穴山信君はどんな考えを持っていたか?
というと、彼は、そもそも織田・徳川との対決を避けるべきだとして勝頼と対立していました。
戦いにも消極的だったとされ、そのせいか、信君および穴山衆の損害は大きくありません。
しかし、武田家全体としみれば最悪の展開。
完膚なきまでの敗戦により、武田家中は大きく打撃を受けてしまい、当主やその後継者すら失う家が多数にのぼりました。
そのため帰国した勝頼に、春日虎綱(高坂昌信)は早速、家中を立て直す献策をします。
策の中には、敗戦の責任を取らせるべく、武田信豊と穴山信君を切腹させる案も入っていましたが、勝頼はこれを退けました。
敗戦の責を負わされる一門としての立場と、消極的な態度が武田四天王の一人でもある春日虎綱から嫌われていたことが、推察できます。
そしてこの年、江尻城を本拠とし、周辺エリアの国衆を味方につけるようになるのですが……このころからすでに徳川と織田と内通していたと見なすこともあります。
五年後の天正8年(1580年)になると出家し、梅雪斎と号しました。
以下、穴山梅雪とします。
梅雪の裏切り 勝頼の滅亡
あくまで推察ながら、このころ穴山梅雪は、嫡男の勝千代に跡目を譲りたがっていたとされます。
そのためには勝千代も正室を迎えねばならない。
梅雪は、そこで勝頼の娘を息子の正室に――と所望するのですが、その願いは実現しません。
母は信虎の娘、自らは信玄の娘を妻とする梅雪にとって、このことは腹に据えかねるものであったと思われます。
勝頼との間の亀裂はますます深まり、外交交渉を務めていた徳川・織田への接近が浮かび上がってくる……。
そんな天正10年(1582年)、ついに信長の長男・織田信忠と、徳川家康が甲斐へ侵攻してきました。
同年2月25日、梅雪は甲府から人質を逃すと、徳川家康に通じます。
・甲斐国を穴山梅雪のものとする
・武田の名を継ぐこと
二つの条件が受け入れられ、寝返りを結構するに至ったのです。
穴山信君は、甲斐河内領と駿河江尻領の国衆として、織田からも認められ、信忠と会見を果たしました。
位置づけとしては、徳川家康の与力。
主君の武田勝頼が天目山に散り、多くの家臣たちも混沌の中で落ちてゆく一方、梅雪は華麗なる転身を遂げたといえます。
しかし、その栄華は長く続きませんでした。
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