2010年代を代表するディズニー映画『アナと雪の女王』と2016年に放送された大河ドラマ『真田丸』。
一見、何の接点もない両作品にちなんで、妙なあだ名をつけられた戦国武将がいます。
武田家の穴山信君(のぶただ)です。
この穴山信君、出家後の号が梅雪であるため、穴と雪という組み合わせから「アナ雪」と表記されたわけですが、実は、それまで彼の印象といえば“卑劣な裏切り者”一色でした。
武田家の御一門に生まれ、信玄の娘を正室としながら、勝頼と戦国武田家が滅亡するキッカケになったからです。
しかし彼は本当に卑劣な人物なのか。
そこに至るまでには、どんな事情があったのか。
天正10年(1582年)3月1日は信君が武田勝頼を裏切って、徳川へ降った日。
果たして穴山信君は、ありのままに生きられたのかどうか、史実の生涯を辿ってみましょう。
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武田一門穴山氏に生まれる
卑劣な裏切り者と後世にまで語られた穴山信君は、なぜさほどにイメージが悪いのか。
一番の理由は、穴山氏が生粋の武田一門、御一門衆であるからでしょう。
彼の出自は単なる一家臣ではありません。
その息子である武田義武が初代穴山氏であり、この義武が穴山を領有したか、あるいは豪族穴山氏に迎えられるなどして、甲斐国内に根ざしていったと推定されます。
いずれにせよ武田一門の血を引いていることは確かなのでしょう。
信君の父である信友からして、武田信虎の娘である南松院殿を妻としています。
天文10年(1541年)、そんな両親のもとに嫡男として生まれた穴山信君は、まず「勝千代」と名付けられました。
この幼名は『甲陽軍鑑』では武田信玄のものとされ、勝頼とも同じ。
一門の男子への期待感がうかがえるでしょう。
第四次川中島の戦いでは信玄のそばに
武田家臣団の子弟は人質と育成のために主君のもとに集められました。
そのため天文22年(1553年)になると信君も甲府へ。
御一門衆に属する勝千代は、その中でも一際目立っていたことでしょう。
後に信君は、信玄と正室・三条夫人の間に生まれた姫を正室に迎えることになり、特別な待遇を受けていたと言えます。
永禄元年(1558年)からは、信君の文書も見られるようになります。
父の穴山信友は同年には出家しており、家督相続はおそらくこの頃。
各合戦でも活躍したと考えられ、永禄4年(1561年)の【第四次川中島の戦い】では、本陣にいて、信玄のそばで守る役割を担っていたとされます。
若き日の信君は、ピンチに陥った主君や味方の軍を立て直すために奮戦し、その武勇を見せつけたとされるほどでした。
しかし、程なくして武田家に暗雲が立ち込めます。
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