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【木曽義昌】
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武田の侵攻を受け抵抗するも……
父・木曽義康の代になり、木曽家は“信濃四大将”と称されるほどの有力な国衆となりました。
そして武田信玄(当時は武田晴信)の攻撃を受けることとなります。
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木曽家は、同じく“信濃四大将”と称された小笠原家&村上家(当主は村上義清・当連載の2人目でご紹介!)&諏訪家と共に対抗。
しかし、天文19年(1550年)に小笠原家、天文22年(1553年)には武田信玄を2度も破っていた村上義清がついに敗れて信濃国を追放されます。
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そして天文23年(1554年)。
木曽谷にも武田信玄の軍勢が押し寄せ、父は居城の上之段城で、木曽義昌は支城の小丸山城(上之段城の以前の木曽家の居城)で籠城戦を繰り広げたといいます。
結果、多勢に無勢であり、武田信玄の勢いを前に降伏……。
その傘下となった木曽義昌さんは、武田信玄の三女とされる真理姫(真竜院)を正室として迎え、信玄の娘婿として武田一門に名を連ねることとなりました。
武田家・西方面の軍団長的な存在となった木曽義昌さんは、美濃国(岐阜県)・遠山家との戦いで大活躍します。
しかし、武田勝頼が当主となった武田家は、天正3年(1575年)【長篠の戦い】で織田信長と徳川家康の連合軍に惨敗を喫するなど、衰退の兆しが見え始めました。
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戦後に武田勝頼から岩村城(岐阜県中津川市)の救援を依頼されるも、木曽義昌さんはこれを拒否。
経済的な理由だったとされますが、武田家の盛衰を見定めていたのかもしれません。
さらに武田勝頼は、天正9年(1581年)に支城の高天神城を徳川家康に攻められ、援軍を送ることができず陥落、求心力を急激に失っていきます。
この「第二次高天神城の戦い」と呼ばれる合戦の前後で、木曽義昌さんの運命を大きく変えることになる誘いが織田信長から届きました。
「武田家を離れて、織田家に味方していただけませんか?」
ここにきて木曽義昌さんは、主家を見限って織田信長の傘下となることを決意します。
国衆は生き残りが大事 とにかく道を探るのじゃ
小説やドラマなどで、木曽義昌さんはよく“裏切り者”として描かれます。
果たしてそうなんでしょうか?
確かに武田家は奥さんの実家ではありますが、父の代までは天敵中の天敵。
滅亡寸前までプレッシャーを与えられた相手です。
その傘下に入ったのは、この時からわずか20数年のこと。
何より、木曽義昌さんのような国衆は、真田家のように生き残ることが一番大切です。
忠義を尽くす対象は主君ではなく“自分の家”!
それが真っ当な選択だと言わんばかりに織田家へ寝返り、人質として弟の上松義豊を武田征伐の総大将である織田信忠(信長の長男)に送りました。
ちなみに、この時に織田家との仲介をしてくれたのは、それまでバチバチの関係で苗木城(岐阜県恵那市)の城主を務めた遠山友忠(正室は織田信長の姪)だったそうです。一時ノーサイド!
一方、木曽義昌さんの主君チェンジを信じられなかったのが武田勝頼です。
説得するために使者を送ったところ追い返され、天正10年(1582年)、ついに木曽義昌さんの征伐に動きます。
実は武田家の新居地である新府城(山梨県韮崎市)には、人質として木曽義昌さんの母と側室、嫡男・千太郎、長女・岩姫がおりましたが、武田勝頼はこの人質らを処刑。
そして従兄弟の武田信豊(信玄の弟・武田信繁の子)を総大将とする討伐軍を木曽谷に送るのです。
武田勝頼の討伐軍を迎撃した木曽義昌さんは、信長嫡男・織田信忠の援軍もあって、木曽の鳥居峠で見事に撃退します。
織田軍の大軍と合流すると、今度は武田勝頼の領地である信濃国に攻め込み、織田軍と共に深志城(後の松本城)の馬場昌房を甲斐国に追放して制圧しました。
ちなみにこの馬場昌房(実名は諸説あり)の父は、アノ“武田四天王”の馬場信房(信春)の長男だそうで、深志城を落ち延びた後は行方不明となっています。
織田家に従ったと思ったら本能寺で信長が……
木曽義昌さんの他、同じく武田一門だった穴山信君(信玄の義兄で娘婿)などが織田・徳川軍に味方したこともあって武田家は一気に瓦解します。
追い詰められた武田勝頼は、同年3月11日に甲斐国の田野(山梨県甲州市)で、正室の北条夫人と嫡男の武田信勝と共に自害して果てました。
こうして名門・武田家は、木曽義昌さんの決断が大きな要因となり滅亡を迎えました。
木曽義昌さんは、この【甲州征伐】において織田軍に味方した功績で、筑摩郡&安曇郡(松本市&安曇野市&木曽町&塩尻市など長野県西部の大部分)をゲットし、深志城の城主に就任することとなりました!
いかに、織田信長に重要視されていたか分かりますね。
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ところが、このまま平穏無事とは参りません。
甲州征伐からわずか3ヶ月後の6月2日、京都・本能寺において大事件が勃発します。
新主君である織田信長が明智光秀に討たれてしまったのです。
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この戦国史に残る大事件を受けて、他の国と同様に信濃国も大混乱です。
こっからの一連の流れは、あまりにカオスなため、箇条書きで整理させてもらいます。
◆信濃国北部を任されていた森長可(信長の重臣・森蘭丸の兄)が美濃国の金山城に撤退することに!
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◆越後国の上杉景勝(謙信の後継者)が信濃国北部を狙って出陣!上杉景勝は小笠原洞雪斎(信濃守護だった小笠原長時の弟)を大義名分として擁立。
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◆木曽義昌さんは上杉&小笠原軍に深志城を奪われ、木曽に撤退……。
※その後、小笠原洞雪斎は上杉景勝の操り人形だったことから家臣たちに愛想を尽かされる。そのため、小笠原長時の子の小笠原貞慶が徳川家康によって擁立され深志城主に。「深志」から「松本」に地名を改められたのは小笠原貞慶が城主の時代
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◆木曽義昌さんは森長可が木曽福島城に立ち寄った後に、美濃国に落ち延びる情報をゲット! これはチャンスと森長可を暗殺しようとする(!)が、この計画が森長可にバレる…
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◆森長可は伝達していた予定より、あえて早く木曽福島城に到着して城内に乱入! 油断していた木曽義昌さんは、逆に長男の木曽義利を人質に取られてしまう。さすが“鬼武蔵”こと森長可!
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◆木曽義昌さんは森長可の安全のため、周囲の豪族たちに「襲わないように」と説き回ることに。そして、森長可は無事金山城に戻り、木曽義昌さんは“元の木阿弥”ならぬ“元の木曽谷”!
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という流れでございます。
ゴチャゴチャと書きましたが、分かっていただきたいのは、木曽義昌さんは再び木曽を領地とする国衆に落ち着いたということです。
そしてここからは、信濃国と甲斐国を巡って3人の大大名(徳川家康と上杉景勝と北条氏直+真田昌幸)が大争奪戦を始めます。
いわゆる【天正壬午の乱】です。
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ここから木曽義昌さんは、国衆の定め“主君替え綱渡り”を始めました。
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