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【木曽義昌】
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秀吉に寝返り 徳川と喧嘩!
まず7月、信濃国に北条氏直が侵攻!
そのため、木曽義昌さんは北条家に従います。
しかし、翌8月に北条氏直が【黒駒合戦(若神子の陣)】で徳川家康に敗れると、9月には家康に通じて傘下となりました。
そのまま2年、ひとまずこれで落ち着いたかのように思えたのですが、天正12年(1584年)のこと。主君の徳川家康が織田信雄(信長の次男)と手を組んで、羽柴秀吉と合戦となりました。
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このとき次男の木曽義春(後年、大坂の陣で豊臣秀頼の誘いに応じて参戦するも討死)を人質として送ることとなったのですが、送った相手は家康ではなく秀吉!
家康との約束を破り、豊臣秀吉に味方することとしたのです。
当然、家康は激怒です。
木曽義昌さんの支城だった妻籠城(つまごじょう・木曽町)に兵を送りますが、木曽義昌さんはこれを撃退!
武田勝頼の軍勢にしろ、徳川家康の軍勢にしろ、木曽で戦う木曽義昌さんは強ぇんだ――ってのは、第一次上田合戦の真田昌幸を彷彿とさせますね。
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この合戦は結局、両者の和議によって終わり、引き分けのような形になりました。
そして、木曽義昌さんが何より関心を持っている信濃国はどうなったかというと、なんと引き続き、家康が国衆を束ねるポジションとなったのです。
つまり、裏切って命懸けの大ゲンカをした相手の上司が、社長の命令ですぐさま再び上司に! 気まずい! 気まず過ぎるぞ!(笑)
真田昌幸にも劣らぬ“表裏比興の者”っぷり
その気まずい一件から6年後の天正18年(1590年)。
秀吉の【小田原征伐】があり、木曽義昌さんは病気で出陣できず、北条氏直が滅びると、ポッカリ空いた関東地方に家康が移ることとなりました。
これは家康の配下だった木曽義昌さんにとって大大大問題です!
関東地方に移るのは、家康のみならずその配下の大名たちも対象となるためです。
つまり、木曽義仲公以来400年ほど続く(ちょっとアヤシイけど・笑)先祖伝来の地を離れなくてはならない。
真田昌幸にも劣らぬ“表裏比興の者”っぷりからすると、ひと悶着起こしそうですが、家康の関東移封は天下人・秀吉の命令ですので断るわけにはいきません。
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おそらく超渋々でしょう……。
ついに、木曽義昌さんは守り抜いてきた木曽谷を離れ関東に移ることを決意しました。
Yeah!
網戸、それは新領地の新境地♪
SO!旭のKISO!
新たなアジト♪
KISOは木曽と基礎を一応かけて……なんでもないです(笑)。思いついたら筆が止まりませんでした。
命を賭して守ってきた故郷の山国から、潮騒の地である網戸(「阿知戸」「蘆戸」とも)へ。
その時の心情はどういったものだったのでしょうか。
「もう、どうにでもなれ!」と思ってしまえばそれでお終いであり、木曽義昌さんは網戸城を拠点として、縁もゆかりも無い網戸の地の開発に動きました。
城の南に城下町を造り上げ、新田開発を行うなど、網戸に繁栄をもたらしたのです。
そして網戸入封から5年後の文禄4年(1595年)3月17日。
再び木曽谷に戻ることなく、55歳で亡くなりました。
わずか5年間の網戸のお殿様生活でしたが、善政を敷いて千葉県旭市の原形となる街づくりを行ったことから、地元民からは現在でも「木曽さま」と慕われており、「木曽義昌公史跡公園」まで造られています。
公園の周辺には、木曽義昌さんの時代には椿湖(つばきのみずうみ)と呼ばれる広大な湖がありました。
木曽義昌さんは自身の遺言通り、この椿湖に水葬されたと言われています。その跡地として伝わる場所に公園があり、敷地内には木曽義昌さんの像やお墓が建立されているのです。
また、網戸城の城内に木曽義昌さんが菩提寺として創建したという「東漸寺(とうぜんじ)」には、木曽義昌さんと真里姫と家臣たちの供養塔が建てられています。
東漸寺で毎年3月17日に追善供養
木曽義昌さんの命日から、ちょうど249年後の1844年(弘化元年)3月17日。このお寺ではなんと、木曽義昌さんの250回忌が行われています。
主催したのは「葦原検校(あしはらけんぎょう)」というお方でした。
葦原検校は、盲人となったために鍼術を極め、松代藩の真田家の御用医師となり、その後は徳川御三家の御用医師となって、最終的には将軍の奥医師となったお方。
この大物医師が、実は木曽家の末裔と言われていて、木曽家復興のために奔走していたのです。実は木曽家は、木曽義昌さんの跡を継いだ木曽義利が改易となり没落していたんです。
このとき木曽義昌さんを偲んで全国の大名や公家、そして庶民からも多くの和歌が寄せられて『慕香和歌集』として奉納され、現在は旭市の有形指定文化財となっています。
また、大法要イベントから8年後の嘉永5年(1852年)のこと。
国学者で歌人の野々口隆正というお方が、木曽義昌さんの旧跡を訪ねて次のように詠みました。
信濃より いつる旭を 志たひ幾て 東の国に あととどめ見舞
“旭”つまりは旭将軍の源義仲にルーツを持つとされる信濃出身の木曽義昌さんが、東国にその業績を残したということを詠んだ歌です。
明治22年(1889年)に網戸村が周辺の自治体と合併することになり新たな町名を付けることになった際、この歌が基となり「旭」という地名が誕生することになったのです!
以上、先祖伝来の地を離れ、潮騒の新境地で骨を埋めた山国出身の戦国武将のお話でした!
長文にお付き合いいただき、ありがとうございました。
ちなみに、東漸寺を中心にして地元では木曽義昌さんの命日3月17日に毎年追善供養を行なっています。
もしお時間が合いそうでしたら、手を合わせに行ってみてくださいませ。
文:れきしクン(長谷川ヨシテル)
◆れきしクンって?
元お笑い芸人。解散後は歴史タレント・作家として数々の番組やイベントで活躍している。
作家名は長谷川ヨシテルとして柏書房やベストセラーズから書籍を販売中。
【著書一覧】
『あの方を斬ったの…それがしです』(→amazon)
『ポンコツ武将列伝』(→amazon)
『ヘッポコ征夷大将軍』(→amazon)
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