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【上杉景勝】
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領地4分の1に削減も家名は繋ぐ
上杉家の存続は、風前の灯にありました。
西軍に味方した、あるいは事態を静観した大名は、毛利家や長宗我部家を筆頭に領地の大幅な削減や改易処分を喰らっており、上杉家の影響力を考えれば寛大な処分は望めません。
改易だった十分にありえます。
結果、彼らは大名家としての存続は許されました。
ただし、領土は4分の1である30万石へ減封し、本拠地も米沢へ移動。
なぜ許されたのか?その理由は
・そもそも、西軍の中心的な勢力ではなかったこと
・繁長を素早く派遣したこと
・家康の側近である本多正信らが助命に尽力したこと
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などが挙げられます。
この屈辱的な処分を聞かされた景勝は、兼続に対し「武名の哀運今においては驚くべきに非ず」と語ったと伝わります。
領地が4分の1になったということは、上杉家の規模をすべて4分の1にしなければなりません。現代の会社であれば、当然リストラの嵐が敢行されるでしょう。
しかし。
景勝と兼続は積極的なリストラを行使せず、望む者はすべて雇用を続けました。
むろん給料は大幅に減らされ、住む家が足りなくなった家臣たちは、何世帯も同居する有様となりますが、それでも景勝らに付き従ったのです。
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美談ではあります。
ただし現実は厳しく、米沢藩は恒常的な財政難に苛まされることになり、直江兼続を中心にとにかく収入増に務めるほかありません。
もちろん徳川への忠誠も他家以上に求められます。
14年後の大坂の陣では、徳川方の最前線で働き、戦後に徳川秀忠から激賞される活躍を見せました。
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そして太平の世が始まりつつあった元和5年(1619年)。
直江兼続が60歳でこの世を去ると、景勝もその後を追うようにして、元和9年(1623年)3月20日、その生涯に幕を閉じるのでした。享年69。
「寡黙で厳粛な将」上杉景勝の評価は?
上杉景勝という男の性格は、寡黙で厳正なものであったとされます。
ほとんど言葉を発さず、感情も読み取れない人物であり、一方で上杉家を守るためとあらば、たとえ家臣でも身内でも容赦はなかったと伝わります。
しかし、景勝の生涯を評価するのは極めて難しいと言わざるを得ません。
なぜなら彼の成し遂げたことは「否定的にも、肯定的にも評価できる」性質のものが多いからです。
例えば、御館の乱を引き起こして家中を分裂させ、上杉家を滅亡寸前まで導いたのは事実。
しかし、御館の乱を通じて家中の反乱分子を一掃し、より近代的な中央集権体制を構築したのもまた事実でしょう。
会津征伐に関しても同様です。
誰よりも早く秀吉と結び、会津120万石の地位を手に入れたのも景勝ですし、情勢を読み違えてその領地を30万石に減らしてしまったのもまた景勝でした。
正直に言って、私は景勝が優秀であったかどうかを判断できません。
ただ、一つだけ言えることは、上杉謙信という偉大な義父の跡を継ぎ、分裂する家をまとめ上げ、まかりなりにも家名を後世を残したのも景勝です。
上杉家といえば、すなわち謙信ですが、もう少し景勝も注目されてよいのではないでしょうか。
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文:とーじん
【参考文献】
国史大辞典
歴史群像編集部『戦国時代人物事典』(→amazon)
乃至政彦/伊東潤『関東戦国史と御館の乱:上杉景虎・敗北の歴史的な意味とは?』(→amazon)
三池純正『守りの名将・上杉景勝の戦歴』(→amazon)
花ケ前盛明編『上杉景勝のすべて』(→amazon)
鈴木由紀子『直江兼続とお船』(→amazon)