こちらは2ページ目になります。
1ページ目から読む場合は
【春日虎綱】
をクリックお願いします。
「高坂弾正」の伝説
もしも春日虎綱が寵愛を受けるだけの美少年だったなら、数年たてば歴史から消えていたことでしょう。
しかし、そうはなりません。
近習から使番十二人衆に取り立てられると、甘飾城、小諸城、海津城を預かる城代となったのです。
これらの城は対上杉においては守りの要であり、信玄の懐刀として睨みを利かせていました。
永禄3年(1560年)頃、牧野島城主の香坂安房守が上杉に内通し、処断されます。
このとき、あるいは弘治2年(1556年)に海津城代になった際、香坂氏を継いだとされ、【第五次川中島の戦い】の頃には「春日」に復姓。
前述の通り、この香坂を「高坂」と表記し、弾正という名乗りと組み合わせた「高坂弾正」が有名ですね。
しかし武田家には他にも「弾正」がおります。
いずれも勇ましい名が付けられる中で、退(にげ)とは?
撤退戦の名手という意味であり、合戦において最も難しい局面が撤退戦とされます。それを巧みにこなすとなれば、かなりの名将だと認知されていたことが浮かびます。
対上杉を任された虎綱は、武田と上杉の名勝負である【川中島の戦い】においてもその名を記しています。
伝説となり、戦国時代を彩るこの戦いに幾度も出てくる「高坂弾正」は、ロマンとともに人々の記憶に残された。
後の天下人たる徳川家康を苦しめた【三方ヶ原の戦い】でも「高坂弾正」の名はありました。
武田信玄の有名な合戦には、その名が何度も登場するのです。
武田家に生じた翳り
虎綱が信玄を支えた武田全盛期に危うい翳りが生じ始めたのは、永禄10年頃と考えられるでしょうか。
同年10月19日(1567年11月19日)、嫡男の武田義信が亡くなりました。かつては自害説が有力でしたが、現在では病死の可能性が指摘もされております。
いずれにせよ、想定外の後継者急死であり、家を傾ける要因となったことは確かなのです。
そして元亀4年(1573年)には武田信玄も死去。
家督は四男の勝頼が継ぎました。
信玄の認識ですら勝頼は後継者ではなく、あくまで中継ぎと考えられていた――そこに義信を失ってからの、武田家が不安定に陥る要因が含まれていたと考えられます。
武田勝頼は最初から詰んでいた?不遇な状況で武田家を継いだ生涯37年
続きを見る
春日虎綱は信玄時代と変わらず、海津城代として対上杉の守備を担っていました。
すると天正2年(1574年)に武田勝頼は、信玄すら落とせなかった高天神城の陥落に成功。
春日虎綱はこのとき、警戒心ゆえか、さして喜んでいなかったとされます。
天正3年(1575年)の【長篠の戦い】では、海津城を守っていて、参戦はしていません。
しかし、嫡男の昌澄が討死を遂げてしまいました。
虎綱は家の行く末を案じ、勝頼にしばしば諫言するも、取り上げられることはありませんでした。
一体なぜだったのか?
※続きは【次のページへ】をclick!